憎悪の視線
目当ての本を見つけたミレたちは、カレンに礼を告げ、それぞれの役割へ戻るためにその場を後にした。
外へ出ると、空気の温度がわずかに変わっているのを感じる。
夕暮れのはずだが、どこか“時間の進み方”が歪んでいる。
石畳の道を進みながら、リナは無意識に空を見上げた。
そこにあったのは――沈まない夕日だった。
(……やはり)
太陽は地平線の上に留まり続けている。
しかし、空そのものは確実に暗くなっていた。
光と闇の整合が取れていない。
(太陽が沈まないのに、夜だけが訪れる……)
常識的な天体運動では説明がつかない現象。
月は昇らず、日が沈まない。
それでも夜は来る。
この国――ヒノキにおける“自然”は、すでに自然ではない。
(環境そのものが、宗教や文化に影響している可能性が高いわね……)
リナの思考は淡々と組み上がっていく。
先程得た情報。
数日後に行われるという月の神の儀式。
そして、街中に掲げられた奇妙なタペストリー。
それらは偶然ではない。
(あのタペストリー……)
脳裏に浮かぶのは、歪んだ笑みを浮かべた月と太陽。
装飾としては異質すぎる。
(象徴としての“圧”が強すぎる)
視線を逸らしたくなるような違和感。
それでいて、どこか惹きつけられる奇妙な魅力。
(あれは単なる信仰対象じゃない……“見せつけるためのもの”)
つまり、思想の可視化。
あるいは――洗脳に近い刷り込み。
「あとは、この本を持ち帰って情報を整理するだけね」
リナが口にする。
だが、その声音はわずかに硬い。
理由は明確だった。
(まだ、何かが噛み合っていない)
違和感の核心。
(タペストリーは“太陽と月”の両方が描かれている)
にもかかわらず。
(儀式があるのは……月の神だけ)
対の存在であるはずの神格に、明確な偏りがある。
それは単なる人気や信仰の差ではない。
(意図的に“月だけを持ち上げている”……?)
もしそうなら。
太陽は何故描かれているのか。
対として残されている理由は何か。
(抑圧か、封印か……それとも)
思考が深まりかけた、その時だった。
「……なんか、見られてるのにゃ」
ミレの声が、静かに空気を揺らす。
全員が足を止める。
そして気付く。
視線の“質”に。
ただの好奇心ではない。
粘りつくような、重たい感情。
嫌悪。
侮蔑。
そして――明確な敵意。
それらが混ざり合い、空気そのものを濁らせていた。
視線の中心。
そこにいるのは――ナミダ。
通行人の男たちが、わざと聞こえる声で呟く。
「……水の魔女だ」
「まだこの街に居たのかよ」
言葉は小さい。
だが、その意図は明確だった。
“聞かせるため”の声。
視線は逸らされない。
むしろ、突き刺すように固定されている。
逃げ場を与えない圧。
ナミダの歩幅が、ほんの僅かに乱れた。
ヴェールの奥で、瞳に薄い揺らぎが生まれる。
しかし。
彼女は何も言わない。
反論もしない。
ただ――受け止める。
(……慣れている)
リナは即座に理解した。
この反応は初めてではない。
繰り返されてきたものだ。
長い時間をかけて、身体に染み付いた“対処”。
抵抗しないことで、被害を最小化する選択。
(つまりこれは、一過性のものじゃない)
構造的な問題。
個人への敵意ではなく、立場への排斥。
その事実が、より重く空気を沈ませていた。
そして――
次の段階へと、進もうとしていた。
(……まずいわね)
リナの思考が警鐘を鳴らす。
視線だけでは終わらない。
この空気は、確実に“行動”へ移行する兆候を孕んでいた。
その予測は――間違っていなかった。
(ここから先は、“表の通り”では収まらない)
静かに、だが確実に。
状況は悪化へと傾き始めていた。




