藍の貝殻
虚無が無限に広がる空間。そこにぽつりと浮かぶ、茜色のシャボン玉。
俺はその中へ、ゆっくりと足を踏み入れた。
ぬるり。
柔らかい膜を押し開くような感触と共に、世界が裏返る。
ふわりと浮遊感が消え、確かな重力が戻ってきた。
靴底に伝わるのは、湿り気を帯びた下草の感触。
顔を上げれば、そこは黄昏の光に満ちていた。
「着いた……にゃ?」
ミレが不安そうにキョロキョロと辺りを見回し、レイラさんの手をぎゅっと握りしめる。
「あぁ。ここが『ヒノキ』だ」
俺たちの目の前に広がっていたのは、奇妙で、美しいコントラストだった。
前方には、沈みかけの太陽が染め上げるオレンジ色の水平線。
星屑を散りばめたような砂浜が、波の音に合わせてキラキラと輝いている。
対して、背後は死の静寂に包まれていた。
鬱蒼と広がる深い樹海。
薄暗い木々の隙間には、青白い人魂が無数に浮いている。まるで迷い込んだ獲物を手招きするように、ゆらゆらと揺らめいていた。
「海岸のすぐ隣が樹海なんて……すごい地形だね!」
「えぇ。地学的にも植生的にもありえないわ。まるで別々の土地を切り貼りしたみたい」
リナが眼鏡の位置を直しながら、興味深そうに周囲を見渡す。学者の血が騒いでいるらしい。
「よしっ! まずは情報収集だね。さっそく探検に行こうよ!」
麗華が楽しそうに拳を突き上げた。その勇み足を止めるように、レイラさんが手を挙げる。
「少し待ってくれませんか、麗華さん。かなり広いですし、効率を考えるなら二手に分かれるのが得策かと。いかがでしょう、宝様?」
「そうだな、それがいい」
俺は少し考えてから、人員を割り振った。
「海岸沿いは視界が開けているから、俺とリナで調べる。樹海の中は視界も悪いし、何が出るか分からない。麗華、レイラさん、ミレの三人で頼む」
「了解っ! 探検だーっ!」
「分かったのにゃ! ミレがレイラお姉ちゃんを守るにゃ!」
「ふふ、頼もしい騎士様ですこと。……もし何かあれば、すぐに《伝達の人魂》で連絡を取り合いましょう」
「あぁ。そっちも気をつけてな」
元気よく手を振る三人の背中を見送る。
深い緑の闇にその姿が消えるのを確認して、俺はリナに向き直った。
「それじゃあ、俺たちも行くか」
「えぇ、行きましょう。この夕暮れの世界……とても興味深いわ」
穏やかな波音を聞きながら、波打ち際を歩く。
波に洗われた貝殻たちが、夕陽を浴びて点々と輝いていた。
「不思議な場所ね……」
リナがふと足を止める。
その視線の先に、一際異彩を放つ青い輝きがあった。
「何かしら、あれ」
白い砂の上に落ちていたのは、深い藍色に染まった巻貝だった。
内側からぼんやりと青い光を放ち、まるで呼吸をしているかのように明滅している。
「どうした? リナ」
「宝様……この貝殻から、わずかに妖気を感じます」
リナが拾い上げた淡い藍色の貝殻。
表面には金粉を散らしたような模様が浮かび、夜空のようにも見える。
「綺麗だな……」
俺は何気なく手を伸ばし、それを受け取った。
――ズンッ。
その瞬間、鉛を持ったような重みが腕にかかった。
(……なんだ、この重さは!?)
物理的な重さじゃない。
魂にのしかかるような、圧倒的な質量の気配。
そこら辺の妖怪とは格が違う。まるで深海の数千トンの水圧を、たった一つの貝殻に凝縮したような濃密な妖力だ。
(もしかして、この世界のボス級に関わるアイテムか……?)
だが、リナは平然としている。
「リナ、その貝殻から……なにか『重さ』を感じないか?」
「重さ、ですか?」
リナは不思議そうに首をかしげる。
「水の気配は感じますが……少し妖力をまとった程度の貝殻にしか思えませんが」
「……なるほど」
リナほどの術者が気づかないとなると、俺の感覚だけが反応しているのか。
これはただ事じゃない。
(勘違いならいいが……念のため、共有しておくべきだな)
俺は懐から《遠話石》を取り出し、魔力を通した。
「麗華、聞こえるか。海岸でとんでもない妖力を秘めた貝殻を見つけた。妖力の属性は水だ。そっちも警戒してくれ」
『りょーかいっ! こっちは今のとこ順ちょ――』
麗華の明るい声が、途切れた。
――ドォォォォォンッ!!
直後、樹海の方角から轟音が響き渡った。




