ミレの懇願
ミレを連れて旅館の敷地へ足を踏み入れた瞬間、外界とは切り離された静寂が俺たちを包み込んだ。
松や竹で丁寧に整えられた庭園の中央を、小川が細く流れている。
水のせせらぎに重なるように、一定の間隔でししおどしが乾いた音を響かせ、夜気に溶けていく。
昼から続いていた緊張が、そこで一段落したような感覚があった。
「ここが……今日泊まる旅館にゃ?」
「あぁ。旅館『碧麦』って書いてあった」
建物に入ると、ヒノキと畳の香りが鼻をくすぐる。派手さはないが、必要なものが過不足なく整えられた、落ち着いた空間だった。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声と共に現れたのは、和服に身を包んだ若い女将だった。
こちらを値踏みする様子はなく、あくまで“泊まり客”として迎え入れる視線。
「二名で泊まりたい」
「承知しました」
木製の記帳台に名前を書き込み、鍵を受け取る。
「欅の間でございます。どうぞ、ごゆっくり」
女将が去った後、ミレが小さく息を吐いた。
「……落ち着くにゃ」
「あぁ。良い旅館だな」
館内図を頼りに廊下を進む。赤い絨毯、両脇に置かれた鬼火の行灯。
淡く揺れる白い炎が、鶴や松の描かれた襖を静かに照らしている。
「この光、鬼火なのに怖くないな」
「人の手で制御された鬼火は、安全にゃ」
欅の間に辿り着き、襖を開ける。
簡素な机と座布団、天井から吊るされた行灯。
白い鬼火がゆらゆらと揺れ、月明かりと混じり合って室内を満たしていた。
「……いい部屋だ」
「心が休まるにゃ」
荷物を片付け終えた後、ミレは座布団に正座し、真剣な表情でこちらを見る。
「……話すにゃ。ポップタウンへの襲撃のこと」
俺も向かいに座り、麦茶を机に置く。
「噂話、なんだろ?」
「最初はそうだったにゃ。でも……もう、無視できないにゃ」
ミレは懐から三枚の写真を取り出し、机に並べた。
そこには、重装備の冒険者と、明らかに初級エリアとは釣り合わない妖怪の姿が写っている。
「大麦平原で撮られたものにゃ」
「……装備が異常だな」
俺の言葉に、ミレは静かに頷いた。
「普段なら、中妖下位までしか出ない場所にゃ」
「つまり――」
「上妖が、現れてる可能性が高いにゃ」
上妖。
あの熊と同格、あるいはそれ以上。
「この街で上妖を相手取れる冒険者は、三人しかいないにゃ」
「数が足りないな」
結論は明白だった。
ミレは立ち上がり、畳に額をつけた。
「……図々しいお願いだって分かってるにゃ」
「でも、この街だけじゃ、守れないにゃ……!」
震える声。それでも、言葉は途切れない。
「間に合わなくても、助けを呼ぶべきだった。でも……みんなに、死んで欲しくないにゃ」
必死な願いだった。
責任から逃げない覚悟の姿勢だった。
「だから……どうか……!」
俺は立ち上がり、ミレの前に歩み寄る。
「顔を上げろ」
手を取り、ゆっくりと起こす。
「断る理由はない」
「俺も、この街が好きになった」
オーラが静かに立ち上る。
「格上だろうが関係ない。守りたい場所があるなら、戦うだけだ」
ミレの瞳から、堪えていた涙が零れ落ちた。
「……ありがとうございますにゃ……」
「任せろ。ポップタウンは、必ず守る」
来るべき襲撃の日に向け、
俺は静かに闘気を練り上げ始めた。




