旅立ち前の焔
客がほとんどいない大浴場には、月明かりが静かに差し込んでいた。
夜気を飲み込んだ石造りの湯船はさざめく湯気を揺らし、淡い光が湯面に反射してゆらゆらと揺れる。
その奥で――まるで焔が形を成したかのような熱気がひとつ、息をしていた。
「久しぶりだな、小火のおっさん」
声をかけると、赤く燃える人影がふっと揺らめく。
「おう、鬼のあんちゃんか」
湯船の縁に腰かけるのは、鬼火の族長にして唯一の中妖へ進化した強者――小火路。
炎の体がゆっくりと揺らぎ、目のような光がこちらを向いた。
「明日の早朝にマジュリアを出る。あんたには最後に挨拶しておきたくてな」
「……そうか。ここを出るってことは、世界の膜を越える術を手に入れたんだな」
静かに言う小火路の炎は、不思議と少し揺れ幅が小さくなっていた。
「あぁ。璃炎を撃破して妨害結界が消えた。転送装置を使えば素で突破できる」
「そうか……寂しくなるぜ、あんちゃん」
ほんの一瞬だけ、彼の炎が影を落としたように見えた。
「それで、どうだったんだい?」
「どう、とは?」
「決まってるだろ。璃炎の野郎だ。強かったんだろう?」
俺は少しだけ目を閉じた。
瞼の裏には、あの灼熱と殺意に満ちた空気がいまだ焼き付いて離れない。
「あぁ、強かった。妖術を三つ持っていた」
「三つ……だと?」
炎が一瞬、ざわりと膨れ上がる。
「獄炎の操作、怒気を力に変える異能。そして……触れたものを無差別に即死させる切り札だ」
「……とんでもねぇ怪物だったんだな。そんなヤツに勝つたぁ、あんちゃんも化け物だ」
「仲間が限界まで戦ってくれたおかげだよ。何人も……死んだけどな」
言葉にすると、あの戦場の光景が蘇る。
戦士たちが残した遺品、焦げた大地。
しかしあいつらのおかげで、俺はレイラさんとミレ……大切な仲間を救えた。
「そうか……あんちゃんの仲間、全員かっこよかったんだろうな」
「あぁ。誰かのために、自分の命を投げ出せる奴らだった」
小火路はしばし黙り、湯の表面だけが静かに波打つ。
その後、小火路はマジュリアの日常について話してくれた。
戦場の外で、人々がどう生き、どう立ち直ろうとしているか――。
「兆笈の野郎が暴れて壊した街の復興も、七割ほど終わった。命は戻らねぇが、みんな前を向いて歩き始めてる」
「……強い国だな、マジュリアは」
「当たり前だ。あんちゃんみてぇなのが何人もいる国だからな」
炎が小さく笑ったように揺れる。
そして――俺がもうひとつ気になっていた話題を口にする。
「獣人差別についてだが……本国ではほとんど見なかった。どういうことなんだ?」
ミレの耳と尻尾を隠していても、遭遇率が低すぎるのは妙だった。
「よく聞かれるよ、あんちゃん世代の妖術師からな」
小火路は肩をすくめるように炎を揺らし、答えた。
「差別はある。だがな、それが酷いのは属国の方だ。本国とは思想も文化も違う」
「なるほど……マジュリアは巨大国家だしな」
「本国じゃ獣人差別は少ねぇ。むしろ、奴隷売買なんざ法律で禁止されてる。破れば重刑もんだ」
「だから、本国には奴隷商は居ない……か」
「あぁ。命を軽んじる連中は、生きて帰れねぇ国だ」
納得した俺は、小火路に深く頭を下げた。
「疑問がひとつ解けたよ。ありがとう、小火路」
「おうよ。余計な疑念抱えたまま旅立つより、スッキリした方がいいからな」
湯から立ち上がると、熱い湯気が肌を撫でる。
振り返れば、小火路の焔がやわらかく揺れていた。
「色々と世話になった。また会おう、小火路」
「おうよ。向こうの世界でも……死ぬんじゃねぇぞ」
その言葉を背に受けながら、俺は静かな浴場をあとにした。
扉が閉まる直前、小火路の炎が、まるで送り火のようにふっと強く揺らめいた。




