璃炎
床がゆらりと揺れ、神の間が真紅に染まった。
煉獄の炎が壁面の聖像を舐め、天井から吊るされた黄金の鎖が、熱で軋む音を立てる。
その中心に座するは、怒りの権能を司る神格──璃炎。
紅蓮の瞳に宿るのは理性ではなく、純粋な「憤怒」そのもの。燃える王冠のような髪が風もない空間で揺れ、ただ存在するだけで世界の理を歪ませていた。
「……来たか。氷の巫女よ」
その声だけで、空気が悲鳴を上げる。
圧が、重い。
まるで大気そのものが怒りに支配されたかのように、レイラの白い頬に熱が刺さる。
(出し惜しみはできません……。最初から、全力で行くしか……!)
レイラの長い銀髪がふわりと浮かぶ。
その瞬間、足元の魔方陣が青白く光り、彼女の周囲の熱をすべて奪い去った。
パキパキと凍る音。
神の間の床が、わずかな範囲ながらも一瞬で絶対零度に変わる。
白い霧が立ち上がり、炎と氷が交わる奇跡的な光景が広がった。
「ほう……我が煉獄を凍らせるか。忌々しいことだ」
璃炎が立ち上がる。
その動作ひとつで周囲の空気が振動し、赤い閃光が奔った。
次の瞬間、熱波の余波がレイラを襲う。
「……っ!」
息を吸うだけで肺が焼けるようだ。
体内の血液が沸騰し、臓腑を焼き尽くされる感覚。
彼女は必死に唇を噛み、膝をつきながらも杖を握りしめた。
(この威圧……。人が立っていられる領域ではありません……)
吐息が震える。
唇の端から赤が滲む。
だが、レイラは倒れない。彼女の眼差しは、氷のように澄み切っていた。
「それでも……。まだ倒れる訳にはいきません」
彼女は冷たく微笑むと、氷の結晶を撒き散らしながら再び詠唱を始めた。
声は静かで、それでいて神聖な響きを持つ。
[『氷結妖術』 絶対零度]
氷野刃の先端から、白く閃光を放つ。
床に走る亀裂から氷の蔦が這い上がり、壁や柱、そして空気中の火花までもを凍てつかせた。
数秒後、神の間の熱は一瞬で奪われ、空気が軋む音がした。
[『氷結妖術』 氷盾六花]
冷気が輪のように広がり、璃炎を中心に巨大な氷の結界を形成する。
だが──。
「戯れ言だ」
璃炎がわずかに首を傾げた瞬間、世界が爆ぜた。
氷の結界が一瞬にして蒸発し、周囲の氷が赤熱して爆発する。
耳をつんざく轟音とともに、吹き荒れる熱風がレイラの身体を容赦なく叩きつけた。
「っ……あ……!」
全身を焼くような衝撃。
背中を石床に打ちつけながらも、彼女はすぐに立ち上がろうとする。
その姿は気高く、痛みに震えながらも、誰よりも凛としていた。
(私の氷では、この神格の炎を止められない……。でも、せめて仲間が来るまで──)
そう考えたその瞬間。
「我を凍らせようとしたのか……。その愚行、命で贖え」
[『炎行妖術』 炎鎖]
璃炎の腕がゆっくりと上がる。
炎の鎖がその掌から伸び、蛇のように空を這う。
その軌跡は神殿の壁に焼印を刻み、赤い光がレイラの影を追いかけた。
「はぁ……っ、く……!」
レイラは必死に結界を張る。
だが、鎖が触れた瞬間、氷壁は粉々に砕け散った。
激しい熱風が吹き荒れ、レイラのマントの裾が焦げる。
彼女の肌に赤い火傷のような紋が走る。
(これほどまでに……!)
璃炎は笑った。怒りのままに、冷笑を浮かべながら。
「氷の女。貴様のような脆きものが、我に挑むなど──極めて腹立たしい!」
声が神殿全体を震わせた瞬間、壁に刻まれた神紋が一斉に赤く光った。
それはまるで、この空間全体が璃炎の怒りに同調しているようだった。
「っ……!」
レイラは息を整え、再び立ち上がる。
手足が震え、吐息は白い。
だが、その瞳には決して折れぬ意志が燃えていた。
(ミレちゃん……。私が時間を稼ぎます……。どうか、生きてください……)
冷たい光を瞳に宿し、レイラは再び杖を掲げた。
氷の陣が足元に浮かび上がる。
「……もう一度、やります」
氷と炎、真逆の力が再びぶつかり合おうとしていた。
神殿の空間が唸り、光が弾ける。
レイラの銀髪が熱風に揺れ、瞳の奥で氷晶が煌めく。
その美しさは、滅びの只中に咲く一輪の花のようだった。




