流麗
声は落ち着き、瞳に揺れる光は穏やかに沈む。
胸の膨らみが微かに波打ち、力強さと軽やかさが同居する。
それは“流し”の目――流れる水面のように静かで、氷の刃のように鋭い、美しき戦士の瞳だった。
――夜風が息を呑む。
「ギ……ギィ……」
兆芨の瞳孔が、かすかに震えた。
幾千年、誰よりも“時”を操り、帝国の興亡を見下ろしてきた神が、初めて恐怖という名の感情を宿す。
背後に浮かぶ時計盤の針が狂ったように回転し、空気がねじれる。
世界が、まるで己の運命を取り戻そうと悲鳴を上げていた。
麗華の髪が闇夜に舞い、月光がその輪郭をなぞる。
微かに笑んだ唇の端が、戦場の冷気の中で紅を差したように鮮やかだった。
胸の膨らみが呼吸に合わせて上下し、そのたびに揺れる影が粉塵の中で生命を主張する。
「……もう、あなたの“時”は訪れない」
風が止み、世界が静止する。
鈴のように澄んだ声が響いた瞬間、空気が裂け、光が走った。
刹那、兆芨の左腕が宙を舞った。
「ギィ……!」
時間が止まったのではない。
彼女が、“時間よりも速かった”のだ。
瓦礫が宙に浮き、粉塵が凍りつく。
光の粒子が空間を割り、世界の骨格そのものが軋む音がした。
兆芨は神としての威厳を保ちながらも、確かに警戒していた。――己が敗北を予感したのだ。
「あなたの妖術……もう分かってる。敵の時間を奪い、“起こるはずだった未来”を消す。それが、あなたの本質」
麗華の声は淡々としていた。だが、その瞳の奥には、烈火のような激情が燃えている。
兆芨が唸り声を上げる。雷鳴のように重く、地面が震える。
麗華は踏み込んだ。
瓦礫が爆ぜ、地面がひび割れ、夜空の粉塵が一気に吸い込まれる。
[桜鈴妖術 桃華旋空]
桜が咲いた。
闇を切り裂く旋風が夜を桃色に染め、刃の軌跡が光の花弁となって舞い散る。
鋭い風圧が兆芨の装甲を斬り裂き、空間を削ぎ落とす。
「遅いよ!」
時間が消えた。
麗華は0秒の領域に踏み込み、空気の摩擦さえ置き去りにして疾駆する。
光閃――兆芨の両腕が爆ぜ飛ぶ。
巨体が地面を抉りながら崩れ、関門が粉塵に呑まれる。
轟音とともに空が震え、城下町全体が波打つ。
だが、それでも終わらない。
兆芨の胸の奥で、紫の光が脈動する。
神の鼓動。世界を律する“時”の心臓。
空気が捻じれ、空間が波のように揺らぐ。
重力が狂い、地面が天へ吸い上げられる。
[時間妖術 時の歪み]
爆音はない。
ただ世界が、音を失って消えた。
瓦礫も、風も、地平も。
すべてが虚無に飲み込まれ、城下町が地図から消滅する。
麗華の頬を一筋の汗が伝う。
それは恐怖ではなく、昂揚の汗。
戦士の血が戦いに震えるときの、あの熱。
「……やっぱり、さすがは特妖クラス。規模が違うね」
微笑みが閃光を照り返す。
彼女は一歩、また一歩と虚空を踏みしめ、太刀を構える。
「ギギギギギ……!」
兆芨が最後の力を解放した。
胸の針が光を纏い、紫の稲妻が世界を裂く。
[時間妖術 時間喪失]
時の奔流が押し寄せる。空間が震え、天地が逆転する。
麗華の背に桜が咲く。
夜の風が桃色の光を帯び、花弁が舞い上がる。
[桜鈴妖術 夜桜乱舞]
時間と花が衝突した。
光の奔流と桜の嵐が爆ぜ合い、世界そのものが悲鳴を上げる。
圧倒的な輝きが夜空を飲み込み、地平線が桃色の光で焼かれる。
「……だけど、正面衝突なら私の方が上だよ!」
叫びが轟音を突き破った。
麗華の太刀が空間を真っ二つに裂き、閃光の中心を駆け抜ける。
刹那、彼女の姿は光そのものになった。
血飛沫も、風も、全てが遅れて追いかける。
兆芨の懐に潜り込み、刃を閃かせる。
「これで――終わりだよ!」
桜が爆ぜた。
時間を止める神の首が、桃色の花弁とともに宙を舞う。
胸の光が潰え、巨体がゆっくりと崩れ落ちた。
世界に“時”が戻る。
静寂。
花びらが風に舞い、粉塵が黄金に輝く。
麗華は息を吐いた。
髪が風に流れ、胸元が揺れる。その姿は、戦場に咲く一輪の花のように儚く、そして力強い。
――誰もが息を呑む。
その笑みは天真爛漫でありながら、確かな誇りを宿していた。勝利の女神のように美しく、そして、戦場に生きる者の覚悟が宿っていた。
瓦礫の中、止まった時計盤の欠片が微かに光る。
かつて時間を司った神の残影。しかし、もはやそれは過去。
煉獄の熱気が、夜風を伝って彼女の頬を撫でる。
麗華の奮闘により、マジュリアを恐怖に陥れた二柱の神の片割れ……時の神格は打破された。




