宿の夜
男湯に足を踏み入れると、夜はすでに更け、湯気が静寂を溶かすだけで人影はなかった。
だが、その静けさを切り裂くように――湯船にひとつ、青白く燃える火の玉が浮かんでいた。
脱衣所から漂っていた妖気の源。それは装飾品のように見えながらも、揺れる焔の奥からただならぬ気配を放っている。
(火の玉……装飾の幻ではないな。これは、妖怪だ)
「……あんちゃん。何を見ているんだい?」
火の玉が声を発した瞬間、焔の芯から浮かび上がったのは、皺の刻まれた渋い男の顔。
燃え盛る炎の中に刻まれたその面影は、ただの下妖のものとは思えぬ深みを帯びていた。
「あんま……人の顔をジロジロ見るもんじゃねぇぜ?」
「すまんな」
《下妖鬼火》
低く、枯れた声。それでいて確かな威を秘めた声色に、俺はリナの話を思い出す。
この街に住まう妖怪――鬼火。
「鬼火か?」
「いかにも」
鬼火は熱気のような身体にタオルをふわりと載せ、ふぅと気持ちよさそうに息を吐いた。
俺も湯をかぶり、その隣に腰を下ろす。
「凄まじい妖気を纏ってるが……あんちゃん、人間じゃねぇな。かといって、純粋な妖怪でもねぇ……」
鬼火の瞳がぎらりと横目で光る。
「あぁ、俺は鬼であり――異能力者だ」
そう答えると、鬼火は納得したように目を閉じた。
「なるほどなぁ……異能力者か。話には聞いていたが、まさかこの目で拝めるとはな……」
次の瞬間、鬼火の顔に険しさが走る。燃える焔の揺らぎすら硬直したように見えた。
(なんだ、この気配……妖将すら凌ぐ覇気……!)
鬼火は無意識に唾を飲み込んでいた。
「どうした?」
「あんちゃん……とんでもなく強いな。それに、何かを背負っているようにも見える」
ただ向き合っただけでここまで見抜くとは――下妖とは思えぬ洞察。
「まさか、一目でそこまで読まれるとはな」
話すうちに、この鬼火の名が小火路であることを知った。
城下町の鬼火たちをまとめる族長であり、通常は下妖しかいない種族の中でただひとり、中妖の格に至った異端の存在。
俺は試すように、自分の身の上を語った。異世界から飛ばされ、酒呑童子とその配下を討ち果たすために戦うことを。
「……あんちゃん、配下全員を倒すつもりかい?」
その声には羨望と、同時に深い諦念が混じっていた。
「悪いが、それは出来ねぇよ。物理的にな」
「物理的に……?」
「あぁ。お前ほどの力なら幹部どもを倒すことは出来るだろう。だがな……」
小火路は焔をゆらめかせ、苦渋を浮かべる。
「他の妖将が治める五大帝国……あれらは、このマジュリアの支配する外宇宙の外縁に存在しているんだ」
彼の語る真実は、壮絶だった。
このラグナドールは酒呑童子による神殺しの後、五つの世界へと分断され、それぞれに配下の妖将が君臨している。
酒呑童子本人は伏魔殿に座し、全域を支配している。
その世界を渡るには――「あらゆる哲学、思想、概念を内包し、超越する世界」。
無限に折り重なったミルフィーユすら貫くほどの穴を穿たねばならない。
「つまり……最高位の世界跳躍が要るってことか」
「その通りだ」
納得する。確かに小火路の顔が重苦しいのも当然だった。勝つだけでは足りない。辿り着く術すら閉ざされているのだから。
「ありがとう、小火のおっさん。貴重な話を聞けた」
「おうよ……璃炎討伐、簡単な道じゃねぇが、せいぜい足掻いてみな」
そうして鬼火と別れ、俺は体を清めて浴場を後にした。
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――――306号室――――
戻ると、ミレもリナもレイラさんもすでに眠っていた。
ただひとり、鏡台の前でローブを羽織り、こちらを待っていたのは麗華だった。
「宝、男湯はどうだった?」
興味津々に覗き込む瞳。その表情は少女らしく無邪気で、同時に底知れぬ知性を宿していた。
「妖怪も入ってたし、いい湯だったぞ。そっちは?」
「こっちもすごかったよ! 機械仕掛けのマーライオンみたいなのが湯を吐いてて!」
「マーライオン……ライオン型の湯口か」
「そうそう! 豪華だったんだよ!」
楽しそうに話す麗華に笑みを返す。そして、俺は浴槽で聞いた話を静かに告げた。
「なぁ、麗華」
「ん? どうしたの、宝」
「酒呑童子の他の幹部……どうやら物理的に辿り着くことが出来ないらしい」
彼女は驚くでもなく、静かに頷いた。
「やっぱりね。私もマジュリア全体を観測してたから知ってる。外縁に、ミルフィーユみたいに重なるSランク世界の障壁があるの」
「知ってたのか」
「もちろん! 私を誰だと思ってるの? 超絶美少女女子高生、麗華様だよ!」
えっへんと胸を張るその姿は愛らしくも、確かな自負があった。
「流石だな、麗華」
「もっと褒めていいんだよ?」
冗談めかしながらも、彼女の瞳には決意が燃えている。
「それで――世界跳躍のことだけど。私と宝なら、ギリギリ届くと思う」
「本当か?」
「うん。宝の“全てを破壊・消滅させる力”と、私の“異世界すら越える速度”。二つを合わせれば」
「けど……条件があるな」
「そう。璃炎と、その直下の妖怪の撃破。あれが妨害壁を張ってる。今のままじゃ私たちでも超えられない」
言葉は明確だった。戦うべき相手も、進むべき道も。
「決まったな。璃炎とその眷属を倒し、次の世界へ行く」
「うん。一緒に戦おうね、宝」
「あぁ。必ずな」
握手を交わした瞬間、彼女の小さな掌から伝わる温もりは、熱い決意の証だった。
やがて二人は布団へ潜り、静かな夜に身を預けた。




