一反木綿
夜気は重く、湿り気を帯びていた。
山奥の闇は音を呑み込み、風さえも息を潜めている。
その沈黙を裂くように――白が、揺れた。
霧ではない。
意思を持った“白布”が、空を泳ぐ蛇のように蠢き、玲の喉元へと一気に絡みつく。
「が……ぁ……っ!」
短い悲鳴。
空気を奪われ、玲の身体が前のめりに崩れる。
「玲さん!!」
ミレの声が弾け、薄紫の光を帯びたダガーが抜き放たれる。
踏み込み、斬撃。風を裂く鋭さ――だが。
白布は、嘲るように“翻った”。
暖簾が風を受け流すように、刃を受け流し、再び形を変えて空へと舞い上がる。
「躱されたのにゃ……!?」
焦りが、声に滲む。
次の瞬間、白布は軌道を変え、ミレの首筋へと落下する。
「っ……!」
俺は足元の石を拾い上げ、掌の中で圧縮する。
赤熱。紅蓮。指の隙間から漏れた熱が空気を歪ませる。
「――離れろ」
短く告げ、投擲。
赤い軌跡を描いた石が白布を貫き、爆ぜる炎が闇を引き裂く。
だが、それでも――完全には焼け落ちない。
白布は焦げながらも空中で形を保ち、再び集束する。
「……しぶといわね」
玲が咳き込みながら立ち上がり、懐から南蛮銃を抜く。
その金属音に反応するように、ミレの瞳が一瞬――揺れた。
光が、消える。
肩が震え、呼吸が乱れる。
「ミレちゃん……?」 「……なんでも、ないにゃ……」
だが、玲は見逃さない。
(銃声……じゃない。形状。金属――記憶の引き金ね)
白布はなおも漂い、俺たちを“測る”ように円を描く。
「来るわ。正体を明かす気ね」
玲が軍刀を構え、冷静に言い切った。
「《『上妖』――一反木綿》
一反の長さを持つ布の妖怪。締殺を好み、命が消える瞬間に執着する」
言葉と同時に、白布が裂ける。
一本が、十本に。
十本が、壁のように展開する。
[『白布妖術』――布の籠]
上下左右、逃げ場を断つ完全包囲。
空間そのものが“布”に支配される。
「……拘束型。広範囲同時制圧ね」
「やぁっ!」 「にゃあっ!」
玲とミレがそれぞれ斬り伏せるが、数が減らない。
布は焼かれ、裂かれても、即座に補完される。
――狙いは俺だ。
「宝殿!」 「ご主人様!」
「問題ない」
足元に、円を描くように炎が広がる。
音はない。だが空気が悲鳴を上げ、圧縮される。
「焼却開始」
一歩、踏み込んだ瞬間。
爆炎が開花した。
中心から放射状に広がる熱波が、白布を一枚残らず飲み込み、灰へと変える。
夜が、赤く染まった。
「……一瞬で……」 「布なのに……完全消滅……」
呆然とする二人を背に、俺は前へ出る。
「戦闘中に考え事か?」
一反木綿が、明確に怯んだ。
妖気が揺らぎ、布が不規則に波打つ。
「ご主人! 物理は効かないはずにゃ!」 「知ってる。――しなるから、だろ」
拳に炎を纏わせ、低く告げる。
「なら、しなる前に終わらせる」
一反木綿が咆哮し、布が束ねられる。
[『白布妖術』――鋭布刺槍]
光速。
衝撃波が地面を抉り、空気が裂ける。
「速いな。……岩熊以上か」
俺は石塊を拾い、突撃の側面へと滑らせた。
――火花。
摩擦。圧力。
石は刃へと変わる。
「研いだ……!?」 玲の声が、わずかに上ずる。
背後からの追撃。
俺は振り返りざま、一閃。
光速の槍が断ち割られ、焦げた布片が夜に散った。
一反木綿の動きが、止まる。
恐怖が、妖気を侵食していく。
「偵察任務だが……」
俺の姿が、爆炎に紛れて消えた。
「敵は、減らしておく」
次の瞬間。
縦に裂けた白布が、理解に追いつく前に焼き尽くされる。
一反木綿は、自分が滅びたことすら認識できないまま消滅した。
夜に残ったのは、焦げた匂いと、静寂だけ。
「……上妖が……」 「……やっぱり、化け物にゃ……」
俺は振り返らず、歩き出す。
「他にもいる可能性が高い。追手は排除した。――戻るぞ」
二人は無言で頷き、後を追った。
(あの一反木綿でさえ、山童以下……
四体同時。被害ゼロで殲滅――簡単じゃない)
炎の残光を背に、俺は闇を進む。
瞳にあるのは、怒りでも恐怖でもない。
ただ――
理不尽を焼き尽くすという、揺るぎない確信だけだった。




