呼ばれたもの
声がする。
夢の奥、意識の果て。誰かが、名を呼んでいる。
池田朝日が目を覚ましたのは、石造りの小さな教会の床だった。仰向けのまま、丸い天井を見上げる。陽が差し込み、光と埃が交わって漂う。
ひとりの人影が、静かに立っていた。
全身を黒いローブに包み、顔は見えない。
「君は呼ばれた。異世界から」
低く柔らかな声だった。「帰る道はないが、安心してほしい。私は君の味方だ」
夢か、錯乱か、それとも新手の犯罪か。朝日の思考は走り出す前に、止まった。
教会の天井が、崩れず、浮き上がったのだ。
石が空へ向かい、風に解けるように消えていく。まるで、時間が逆に流れているようだった。
気づけば、建物はなく、ただの草原。
二人だけが残されていた。
風が吹く。ローブが揺れる。
その奥に見えた顔を見て、朝日は息をのむ。美しい。神の像のような輪郭。まるで現実の顔ではなかった。
「あなたは……誰?」
問いが口をついた。
男はわずかに首を傾け、間を置いて答える。
「カイと呼ばれている。それが本当の名かどうかは、分からない」
声は穏やかで深く、どこか空っぽだった。耳よりも、心に直接触れるような響きだった。
朝日はあたりを見た。野原は広がり、一本の道だけが草をかき分けて遠くへ伸びている。
「帰れない……どういう意味ですか」
「君は、この世界に選ばれた。あるいは、生まれる前から」
「そんな話、信じられません」
そう言いつつ、心のどこかが反論していなかった。
もしかして、と。ずっと昔から、知っていたような気がする。
「私に、何をさせたいんですか」
「まず、自分を思い出せ。君はまだ、自分のすべてを知らない」
確かに、名前や記憶はあるのに、“自分”の実感が薄い。何かが足りない。違和感は最初からあった。
そのとき、風の音が変わった。湿った、泣くような風。
振り返ると、草の中に人影があった。
子どもだ。髪は乱れ、服は擦り切れていた。じっとこちらを見ている。
「……誰ですか、あれは」
カイが答えた。「過去の断片だ。この世界では、記憶も姿を持つ」
「私の?」
「かもしれない」
朝日が一歩踏み出すと、草が音を立て、道がひらけた。
子どもは、涙を浮かべていた。何かを言おうとしている。
風が、声を運ぶ。
──忘れたの? あの約束を
それは、朝日にだけ届いた。
子どもが泣き止んだ瞬間、風が止まり、景色が切り替わった。
⸻
草原も、カイも、もうなかった。
朝日は白い部屋に立っていた。無機質で静か、病室のようだが、もっと抽象的だった。
中央に球体の機械。無数のボタン。液晶がひとつ。
《記憶回収モード:進行中》
「……なんだ、これ」
機械が応えた。人工音声だが、妙に親しげだった。
「回収率72%。まもなく次のフラグメントへ移行します」
朝日は部屋を見渡す。扉も窓もない。すべてが白い。そして、頭の奥が痛んだ。
草原、子ども、カイの顔が、かすかに蘇っては消える。
「夢? 現実? それとも……」
球体が言った。
「次の記憶へ進みます。深呼吸を——冗談です、そんな機能はありません」
思わず、笑いが漏れた。
その瞬間、床が沈む。身体が浮くような感覚。視界が、白に包まれた。
また、呼ぶ声がした。夢の奥から。あるいは、設計された幻の中から。
⸻
気づくと、朝日は小さな図書室にいた。
赤い空が窓の外にあり、机にはノートとペン。
ノートには、見覚えのある字でこう書かれていた。
「次の自分へ。まだ目覚めるには早い。だが、あと三回」
「三回……?」
呟いたその声に、天井から応えが返る。
「それが、あなたの決めたルールですよ。池田朝日さん」
朝日は深く息を吐いた。
この物語は、「終わり」ではなく「続き」を求めている。
まるで、誰かが永い暇つぶしを続けているかのように。
赤い空がゆっくりと沈んでいく。
図書室の中に、時計はない。それでも、時間が確かに過ぎていくのを、朝日は感じていた。
机の上には、一冊のノート。そしてペン。
書かれていた文字は、自分の字だった。間違いない。
けれど、「三回」というのが何を意味しているのかは、まだ分からなかった。
「……これも、私が書いたの?」
呟いた声は、部屋に吸い込まれていく。
誰も答えない。先ほどの声も、もう聞こえなかった。
だが、次の瞬間――
「第一断片、完了。第二断片、転送準備」
機械的な声が、空気を割った。
ノートの下から、光が漏れ出す。
机が、まるごと沈んでいくように揺れ始めた。
「また……来る」
朝日は立ち上がった。身体が覚えている。これが、次の“転送”だということを。
床が軋むように鳴り、視界が白で覆われた。
目を開けると、そこは石畳の道だった。
まばらに建つ店の明かりが、夜の町をかすかに照らしている。
香辛料の匂いと、遠くの鐘の音。
市場の残り香のような気配。
「……これは……」
思い出すより先に、誰かが走ってきた。
「朝日っ!」
呼び止める声。振り向くと、少女がいた。
十五、いや十四か。背が低く、肩までの髪を揺らしながら駆け寄ってくる。
「遅いよ、探したんだから!」
朝日は目を見開いた。
「君は……誰?」
少女は立ち止まり、ぽかんとしたあと、笑った。
「またそれ? 冗談でしょ。さっさと帰ろうよ。ママが怒るよ」
少女は朝日の手を取った。
その瞬間――頭の奥が閃いた。
熱。音。色。
──小さな家。狭い台所。湯気の匂い。
──「朝日」と名を呼ぶ、あたたかな声。
「まさか……これも私の記憶?」
歩きながら、朝日は少女の横顔を見つめた。
「ねえ、名前を教えて」
「は? もうやめてよ、朝日ってば」
「……ほんの少しだけでいいから」
少女は少し考えたあと、照れたように笑った。
「ミナだよ。あなたの……妹」
その言葉が、胸に刺さった。
ミナ――
そう呼ばれた少女は、手を引いて細い路地を歩いた。
通りには、誰もいなかった。扉は閉ざされ、窓の光だけが人の気配を物語っていた。
「ねえ、朝日」
少女がふと立ち止まった。
「ほんとうに、覚えてないの?」
その目は笑っていなかった。
寂しさとも怒りとも違う、もっと深い――あきらめのような、悲しみのような。
「……ごめん。でも、何かが少しずつ……戻ってきてる」
その言葉に、少女は小さくうなずいた。
「じゃあ、最後の夜を、ちゃんと覚えていて」
「最後……?」
少女は歩き出す。角を曲がった先に、小さな家があった。
煉瓦の壁、壊れかけた門扉。懐かしい――とすら思える。
ミナが戸を開けると、あたたかな光と湯気が、朝日の頬にふれた。
食卓。料理。笑い声。
誰かがいた。父か、母か、それとも別の誰かか。
記憶のピントが、どうしても合わない。
だが、ミナは確かにそこにいた。
その晩、彼女は静かに言った。
「ねえ、朝日。もし全部忘れても、私は待ってるから。世界のどこかで、絶対また会えるって信じてるから」
その言葉が、最後の記憶だった。
そして――
「記憶断片、統合完了。次へ移行します」
声が割り込んだ。
風が、光が、そして家が――崩れ、消えていく。
ミナの姿もまた、まるで最初からそこにいなかったように、白の中に溶けた。
今度、目を覚ました場所は広場だった。
空は黒く、星もなく、時計塔だけが空に突き刺さっている。
人々がいる。誰もが顔を伏せ、言葉を持たず、影のように歩いていた。
朝日は立ち尽くす。そのとき、誰かが声をかけてきた。
「やっと見つけた」
見ると、カイだった。黒衣のまま、だが前より近くにいた。
「ここは、何……?」
「記憶の終端。君が最後に忘れた街。ここに、最も深い欠片がある」
「ミナのことは……?」
「君が選ばなかった世界だ。けれど、君は忘れられなかった」
朝日は息を呑む。
「つまり、私は――」
「この都市のどこかに、お前自身の“核心”がある。そこへ行こう」
カイが手を差し出す。
今度は、朝日がそれを取った。
広場を抜け、階段を降り、長い廊下を歩く。
誰もが夢のような顔をしていた。
都市は眠り、記憶は漂っていた。
やがて、たどり着いたのは――
一つの扉。
どこかで見たことがある。
白く、静かで、まるで最初の図書室のような――
「ここに入れば、最後の断片が戻る。ただし」
「ただし?」
「全てを思い出す代わりに、お前は選ばなければならない。今の世界に留まるか、それとも……元の世界を捨てるか」
選択。
それがすべての鍵だった。
「……私に、もう戻れる場所なんて、あるの?」
「それを決めるのは、お前だ。だが、思い出せ。誰かがお前を、今も呼んでいる」
扉が開いた。
光が溢れる。
朝日はその中へ――歩き出した。
ミナ――
そう呼ばれた少女は、手を引いて細い路地を歩いた。
通りには、誰もいなかった。扉は閉ざされ、窓の光だけが人の気配を物語っていた。
「ねえ、朝日」
少女がふと立ち止まった。
「ほんとうに、覚えてないの?」
その目は笑っていなかった。
寂しさとも怒りとも違う、もっと深い――あきらめのような、悲しみのような。
「……ごめん。でも、何かが少しずつ……戻ってきてる」
その言葉に、少女は小さくうなずいた。
「じゃあ、最後の夜を、ちゃんと覚えていて」
「最後……?」
少女は歩き出す。角を曲がった先に、小さな家があった。
煉瓦の壁、壊れかけた門扉。懐かしい――とすら思える。
ミナが戸を開けると、あたたかな光と湯気が、朝日の頬にふれた。
食卓。料理。笑い声。
誰かがいた。父か、母か、それとも別の誰かか。
記憶のピントが、どうしても合わない。
だが、ミナは確かにそこにいた。
その晩、彼女は静かに言った。
「ねえ、朝日。もし全部忘れても、私は待ってるから。世界のどこかで、絶対また会えるって信じてるから」
その言葉が、最後の記憶だった。
そして――
「記憶断片、統合完了。次へ移行します」
声が割り込んだ。
風が、光が、そして家が――崩れ、消えていく。
ミナの姿もまた、まるで最初からそこにいなかったように、白の中に溶けた。
⸻
第四章:忘却の都市
今度、目を覚ました場所は広場だった。
空は黒く、星もなく、時計塔だけが空に突き刺さっている。
人々がいる。誰もが顔を伏せ、言葉を持たず、影のように歩いていた。
朝日は立ち尽くす。そのとき、誰かが声をかけてきた。
「やっと見つけた」
見ると、カイだった。黒衣のまま、だが前より近くにいた。
「ここは、何……?」
「記憶の終端。君が最後に忘れた街。ここに、最も深い欠片がある」
「ミナのことは……?」
「君が選ばなかった世界だ。けれど、君は忘れられなかった」
朝日は息を呑む。
「つまり、私は――」
「この都市のどこかに、お前自身の“核心”がある。そこへ行こう」
カイが手を差し出す。
今度は、朝日がそれを取った。
広場を抜け、階段を降り、長い廊下を歩く。
誰もが夢のような顔をしていた。
都市は眠り、記憶は漂っていた。
やがて、たどり着いたのは――
一つの扉。
どこかで見たことがある。
白く、静かで、まるで最初の図書室のような――
「ここに入れば、最後の断片が戻る。ただし」
「ただし?」
「全てを思い出す代わりに、お前は選ばなければならない。今の世界に留まるか、それとも……元の世界を捨てるか」
選択。
それがすべての鍵だった。
「……私に、もう戻れる場所なんて、あるの?」
「それを決めるのは、お前だ。だが、思い出せ。誰かがお前を、今も呼んでいる」
扉が開いた。
光が溢れる。
朝日はその中へ――
扉の向こうは、空だった。
空でありながら、床はあり、壁も天井もなく、ただ、光があった。
その中心に、少女がいた。
背を向けて立っている。風はないのに、髪が揺れている。
「……ミナ?」
朝日が声をかけると、少女は振り返った。
だが――その顔は、まったくの別人だった。
それでも、なぜか懐かしい。まるで、自分自身を見ているような。
「あなた……誰?」
少女は、ほほ笑んだ。
「あなたの三番目の人格よ。朝日、あなたはかつて、記憶を三つに分けたの」
「どういうこと……?」
「ひとつは“現実”。ひとつは“理想”。そしてひとつは“棄却”。」
少女が歩み寄る。
その瞳は、誰よりも深く、静かだった。
「この世界は、あなたが“棄てたもの”の集合。戻るには、全部を思い出さなければならない。けれど……あなたはそれを怖れていた」
朝日は、心の奥に重いものを感じていた。
分けられた記憶。その断片。誰かの声。
そして――何より、過去の自分自身。
「もう、逃げない。全部、受け取る」
少女はうなずいた。
「じゃあ、思い出して。すべてのはじまりを」
映像が流れる。
目の前に、かつての自分がいた。
白い病室。
機械の音。
誰かが泣いている。
――母だった。
記憶はつながった。
事故。手術。昏睡。
名前を呼ばれるたび、夢の中に逃げていた。
異世界は、逃げ場だった。
そこに創られた「ミナ」も、「カイ」も、すべては記憶の岸辺に立つ幻だった。
それでも、確かに彼らは“存在”していた。
言葉をくれた。導いてくれた。
そして今――朝日は、目を開いた。
機械が音を立てる。
《記憶回収モード:完了。復帰シーケンス起動》
誰かが駆け寄る。
白衣の医師。泣き崩れる家族。
そして、あの少女が――ミナが、いた。
だが今度は、本物だった。
彼女の涙が、頬に落ちた。
「……おかえり、朝日」
朝日は、小さく笑った。
口は乾いていたが、声が出た。
「ただいま」
リハビリ室の窓から、春の光が差し込んでいた。
カイに似た医師が笑っていた。
ミナは、今日も本を読んでいた。
「ねえ朝日、覚えてる? 夢の話」
「……うん。忘れないよ。きっとずっと、あの世界は私の中にある」
「じゃあまた、物語を書いてよ。わたしに聞かせて」
朝日はうなずいた。
そして、ノートを開き、ペンを取る。
一行目に、こう記す。
だれかが呼ぶ声がする。夢の遠くから、意識の遠くから――
物語は終わらない。
誰かが生きている限り、記憶は、物語として生まれ変わる。
そしてまた、新たな夢の中で、呼ぶ声が響くのだ。