パトスフィア
西岡さんの話をしよう。
彼女はアルツハイマーを患い、いくつかの施設を転々とした末に僕が勤めている病院へとやってきた。
まだ五十代後半で髪も黒いけれど、時折とても落ち込み、錯乱してしまうので、精神薬投与は欠かせない状態だ。治らないだろうと言われていて、とにかく状態を保つことを目標に治療計画を立てている。
僕はというと、しがない看護学生だ。昼間は食事やトイレといった生活のための介助を任され、夜間には看護師資格を取得するための学校に通っている。
僕はその日、半袖短パンという格好で風呂場に腰を下ろしながら西岡さんを待っていた。
「西岡さん来ましたー」
同じく介助を仕事にしているワーカーさんにつれられて、西岡さんがやってきた。一人で歩くことが出来るし、服も着脱出来る。そして何より風呂が好きな西岡さんを入浴させるのは比較的簡単だ。
「脱ぎましょう」
「入りましょう」と説明を添えただけで西岡さんはすんなりと裸になって風呂場へと進んでくれる。体を丁寧に洗ってから、僕は彼女をバスタブへと浸からせ、お湯をつぎ足した。
「湯加減いいですか」
「はい」
嬉しいことに彼女は気持ちよさそうに肩まで体を沈め込んだ。口元を緩ませ、瞼を閉じる。
「若い男の子にこんなことさせて悪いわ」
御年十八の僕はなるべく視線を合わせないように配慮しながら、手で湯を撹拌させた。彼女は女性だ。男性に入浴を見られるということは羞恥心が伴うことだ。
僕は彼女が恥ずかしさを感じにくいように、脳味噌の津々浦々から適当な世間話を探した。
「そういえば今日も娘さんが来てましたね」
「娘じゃないのよ、お父さんの妹なの」
つまり旦那さんの妹ということか。殆ど毎日訪問されていて、その都度衣類などを持ってくることから、かなり近しい人だと思っていたが、意外にも遠い。妹さんと仲が良いのだろうか。もしかしたらお子さんは離れた場所に暮らしているのかもしれない。
「私ね、かなりワガママを言ってたから、お父さんがなかなか来てくれないのよね」
湯船によって赤みの差し始めた頬に、微細な影が落ちる。
アルツハイマーは脳萎縮によって記憶力が下がってしまう病だ。原因は殆どの場合不明で、治療薬にアリセプトというものはあるが根元的な治療にはなりえない。性格変化もあるために家族とのトラブルは耐えず、憔悴しきった家族が医療保護入院を求めるケースは少なくない。
旦那さんはつまり、そういうことだ。
考えを巡らせて、
「寂しいですね」という言葉が口をついた。
「でもね。すごく良い人なのよ。こんな私をね、愛してくれるただ一人の男性なの」
「またまた。昔はそれなりに合ったでしょう」
「いいえ。彼一人だったの。優しくて、誠実で……」
彼女の目が虚ろに漂う。僕は慌てて、
「素敵な人ですね。きっとお仕事が忙しいんでしょうね」と、無理矢理に会話の尻を持ち上げた。
「そうなのよ。お仕事は、内科のお医者さんでね」
上手い具合に気分を変えられたらしく、それから明るく談義が花開いた。お陰様で少々の長風呂、ワーカーさんに急かされての入浴介助となってしまった。
そして話は、今日のことに結びつく。
休憩時間に西岡さんの話題が出てきた。看護師さんいわく、妹さんが今日もまた訪問に来られるらしい。よくいらっしゃって幸せだなと相づちをし合って、僕はふいに風呂場での話を思い出した。
「そういえば、西岡さんは旦那さん一筋みたいですね」
机に広げられたお菓子を啄みながら語り、締める。
「なんだか羨ましい話です」
率直な意見だった。僕は西岡さんが羨ましい。確かに若くしてアルツハイマーという病にかかってしまったが、彼女の環境は恵まれているように思えた。施設の入院費だって安くはないし、こんなにも愛情を傾けてもらえることなんてそうそう無いことだ。
話の余韻に浸ろうとして、だが妙な空気に挫かれた。看護師さんやワーカーさんが、気まずそうに目配せしている。
「君は入ったばかりだから知らないのよね」
「何をです?」
意味深げな口振りに首を傾げると、
「西岡さんの旦那さんはね。もう十年ほど前に亡くなっているのよ」
肩をふいに叩かれたような感覚だった。
ぼやけていた視界が定まって、背筋がしゃんとするような。大事な物を忘れたことを思い出すような小さな衝撃。
僕はほんの少しだけ上へと視界を転がすと、言葉を次いだ。
「そうかも、とは思っていました」
本当は引っかかっていたことだ。
アルツハイマーという病気の重さ、この病院へ来たことの意味。まだたった一ヶ月働いていないけど、その間にしっかりと染み込んだ空気は僕の中で静かに息を潜めていた。幸福なことを幸福と思いながらも、病がある限り安心は存在しない。
休憩を終えてから、ぶらぶらとレクリエーション室へ向かった。窓には短いレースのカーテンだけなので、豊かな斜陽が満ちている。西岡さんは光に包まれながら、ソファに体を預けていた。
看護師さんの歌う童謡が静かに響いていて、彼女は共にさえずる。
「西岡さん」
横に座りと、膝に触れた。僕に気づいて、微笑んでくれる。
「あのね。今日も妹さんがいらっしゃいますって」
彼女はパッと顔色を明るくすると、
「お父さんはまた来ないのね。残念だわ」
静かに指を組み、また微笑んだ。
「そうですね」
僕は大きく頷くと、鈍い動作で部屋を見渡した。
壁は淡く白に近い黄色。光をよく吸い込んで、今はだいだい色に灯る。その中で、様々な病気を抱えた人々が思うように生活をしている。
彼らには過去があり、人生がある。僕なんか比べものにならないくらいの長い日々、悲しい日があり、嬉しい日もあり、今へと伝っている。
一見、伸びやかに見える。健やかに見える。
しかしここは穏やかな、戦場。生きることの意味を刻み続ける場所。思い出し、僕は思い知る。
深く目を閉じた。それからはっきりと喉を震わせた。世界中に、深く染み渡るように。
「だけどいつかきっと いらっしゃいますよ」
実話を基にしています。