空を飛ばないピーターパン
空を飛ばないピーターパンがいた。…まあ考え方次第では何処にでもいるが。
空を飛ばないピーターパンは、ある日冒険に出掛けた。でも徒歩で手ぶらだったので、傍目には散歩と区別が付かない。だけど、酒や薬物に侵食されて水分が欠乏している頭では、只々歩いて行く事すらが、確かにある程度身を危険に晒す冒険ではあったのだ。それは、通りや酒場にたむろして、陽気で無邪気ながら下卑た揶揄いの言葉を投げつけてくる、元海賊達には分かりはしない。何せ彼らには何も分からない。彼らはフック船長が死んでしまったあの日から、名ばかりで陸を終ぞ離れることのできない海賊なのだ。酒に酔ってでないと暮らせない彼らは、本当はピーターパンが好きだ。喧しくて陰険で束縛の好きなフック船長を殺してくれた事もあったし、なにより本当は彼らはピーターパンが他人の気がしない。ただ彼らは、彼らだけでどうやって生きていっていいのか分からなかった。だから、唯一彼らの気持ちを分かってくれそうな間抜けに、彼らの分かる数少ない言葉を投げかける。「ようピーターパン、ティンカーベルはどうしたい?乱暴に扱い過ぎて穴開けちまったんだろ?」「おい、いい薬仕入れたんだよ。今のお前だってすぐにマダガスカル辺りまでぶっ飛んでいっちまいそうなやつだぜ」。それらの言葉は、海賊たちにとっては挨拶なのだ。とても親愛の籠った情の投げ掛けなのだ。空を飛ばないピーターパンもそれが良く分かっていたのだけれど、でも、分かっているという事と、傷付かないという事は違った。彼らの根の優しさが分かりながら、彼らの口調に出る表面の荒さに日々傷付いてきた。傷付いてきたが、彼の友達はもう海賊たちだけだった。ウェンディも、そしてティンカーベルもとっくの昔に彼の下を去っていたから。でもそんな日々はもう終わりだ。そう思って、空を飛ばないピーターパンは冒険に出たのだった。
そう、ウェンディもティンカーベルも、空を飛ばないピーターパンの傍には居やしないのだった。「ああ、もし誰かが僕の傍に居てくれたならなあ」と、空を飛ばないピーターパンは考える。そう考えてから、「そうか、僕は、誰でもいいと思っていたから、誰も居ないようになってしまったのかもな。君が居てくれたら、って、誰かに言えばよかったのかな」と思い直す。しかし全ては後の祭りだった。海賊たちは荒々しい口調で、友情から教えてくれた。「おいピーターパン、ウェンディは大人を通り越して後家さんになっちまったそうだぞ。今こそチャンスだぜ。攫ってきちまえよ」そして海賊たちは、フック船長から遠い昔に教え込まれた縄で縛るやり方、人の攫い方のイロハを、自分達自身忘れてるくせに、ああでもないこうでもないと言い合いながら教えようとするのだった。でも、このネバーランドから出る方法については、誰も話そうとはしなかった。
それでティンカーベルの方はどこへ行ったのか?ティンカーベルはピーターパンにとって誰よりも大切な仲間だった。いや恋人だった。初めにして最期の恋人だった。空を共に飛べる恋人だった。ただ、身の丈だけが合わない。手の平に収まるかの様に可愛らしい恋人だった。小さくて可愛らしい…もしかすると、小さい事が可愛らしい、と思っていたからだろうか?ピーターパンが「小さい君が好きだ」と念じたから、初めはマトモな大きさだった筈のティンカーベルは、彼の願望に合わせる様に、その身を小さくしていってしまったのじゃなかったか?もしかすると、羽を持って空を飛ぶのだって、彼が望んだから仕方なく付き合ってそうなったのじゃなかったか?そうだ…きっとそうやって、そして最期には、よく思い出せないからおそらくだけれど、僕自身の目にも見えない位にまで、縮み切ってしまったのじゃなかったか?そこまで考えると、空を飛ばないピーターパンは、高層ビルの屋上に居る自分に気が付いた。そうか、冒険ってここの事か、と自分自身やっと気付く。「飛べないのに、飛びに来たのか。バッカだなあ…」と呟く。するとどこからか、「飛べるわ」と聞こえた。空を飛ばないピーターパンには、それがティンカーベルの声だとすぐに分かった。「ああ、そうか。ティンク、君ずっと一緒に居たのか。小さくなって、見えなくなってもずっと一緒にいたのか。僕気付かなかったよ」とピーターパンは言った。そこから先は…もう「空を飛ばないピーターパン」の話の範疇ではない。