98.激流体験⁉ 川下り
次の日の朝、ネクターさんはログハウスから車で三十分ほど行ったところにある川べりで目の前の光景にポカンと口を開けていた。
「お、お嬢さま……?」
「どうしたんですか?」
「まさか、本気でこれに乗るおつもりですか……?」
ネクターさんが忌々し気に、これ、と言ったのは、小さな木製の船のことだろう。
船と呼ぶにはあまりにも心もとないその乗り物に、ネクターさんは案の定ともいうべきか遺憾なくネガティブを発揮した。
「受付もすませたじゃないですか。それに、もう着替えもばっちり!」
ネクターさんだって、鮮やかな黄色のライフジャケットをしっかりと着こんでいるくせに何を今更。
「で、ですが! 話が違います! 船頭の方から話をうかがいながら、ゆったりと川を下っていくと……」
「お兄さんば何をさっぎがら! ええがらはよう乗るモン! ゆっぐり、川下りばするがや?」
「と、とてもゆっくりには見えないんですが!」
川幅は思っていたより狭くて、流れもそこそこ急だ。
でも、下っていくうちに、だんだんと川幅も大きくなっていくと聞いたし、船頭さんが言う「ゆっくり」も間違ってはいないのだろう。
「んだば、先にお嬢ちゃんば乗りんさい。あんな男ばやめで、俺の息子のとごば来だ方がええね!」
ガハハと笑うおじさんは、この道三十年のプロらしい。軽快なトークに私が笑うと、ネクターさんがじとりと不穏な目を向ける。
「乗ります」
「ネクターさん⁉」
「お嬢さまを先に行かせるなんて、従者の名折れ……。ぼ、僕は……お嬢さまの付き人ですから!」
まるで自分に言い聞かせるかのようなネクターさんの言いぐさに、船頭さんが再び笑い声をあげる。
「おう! それでこそ、男がや! よう言っだね! ほい、お兄さんばそごすわっで!」
船頭さんがひょいと乗り込んだ船に、ネクターさんは恐る恐る足を踏み出す。
小さな船だから、ちょっとしたことでゆらゆらと揺れて、足元がかなり不安定なようだ。ネクターさんはおっかなびっくり。悲鳴にも似た聞いたことのない声まで聞こえた気がする。
ネクターさんが乗ったのを見計らって、私も船頭さんに促されるまま船へと乗り込む。
「アオ、しっかり掴まっててね!」
ライフジャケットの内側についたポケットでウキウキとしているアオに話しかければ
「ぴぇ!」
と誰よりも元気な返事が聞こえた。
「んだば、早速行ぐがや! 船ばしっがり掴まっでらあ、落ぢることばねえモン!」
「お、落ちるんですか⁉」
「まあ、年に一回くらいだば、気にせんでええがや」
だっはっは、と声を上げて笑う船頭さんに、ネクターさんの顔からサッと血の気が引いていく。
「……あ!」
そういえば、ネクターさん、泳げないんだった!
「船頭さん! このお兄さん、泳げません!」
「あぁ?」
時すでに遅し。
船頭さんは大きく一かき、勢いのついた川へと向かって船をこぎだしたところで……。
「おわぁっ⁉」
ガクンと大きく揺れた船に、ネクターさんが驚愕する。
その後もグングンとスピードを増していく船に、もはやネクターさんは考える余裕を失ったらしい。
船頭さんが何やら景色の説明をしてくれているけど、船があまりにもすごいスピードで進んでいくのを感じないよう、必死に神に祈りを捧げている。
「船頭さん、よく立ってて怖くないですね⁉」
結構な揺れに、さすがの私も船のへりをしかと掴んだ。
アトラクション感覚で楽しいけれど、それよりもネクターさんが心配です!
「俺は慣れどるモンで! いやあ、お兄さんみだいに怖がっとる人ば見るど、面白くでしょうがねえなあ!」
言いながら、船頭さんはさらに勢いよく船を漕いでいく。
ジャバジャバと音を立てる水流が次第に激しくなっていく。目の前を見やると、落差があるのか、今まで以上の急流になっている場所があった。
「さぁ、行ぐぞお!」
船頭さんの声が聞こえたかと思うと――
「ほぉぉわぁぁあああ⁉」
「おぉぉぉおおおぅぅ⁉」
「ぴぃぃぃぇえええええええ‼」
私とネクターさん、そしてアオの絶叫がこだました。
船がものすごい勢いで激流へ突っこむ! 水流に乗ってザブンと激しく船体が揺れ、周りの景色は信じられないほどの速さで駆け抜け、水しぶきがあがり、どちらが前で後ろなのかも分からないままにぐるりと船の角度が変わる。
やばいやばいやばい! これは! 速すぎます‼ 止まってぇぇぇえええ‼
長すぎる数瞬。
祈りの後に訪れたのは穏やかな静寂と……それをかき消すような豪快な笑い声だった。
「ぶっ、くっくっくっ……はっはっはっはっ! いやあ、お兄さんら、おもれえモンだば、最高がや‼ あぁ~、ええ反応だモン!」
先ほどとはうってかわって、ゆったりとした川の流れに、船頭さんのオールを漕ぐ手も止まる。
ピチチチ、とどこかで鳥の声がして、私たちはようやくそこで息を吐いた。
「びっくりしました! でも、すっごく楽しかったぁ!」
「ぼ、僕はもう……これは、勘弁してください……!」
「ぴぇ! ぴぇ!」
それからは船頭さんもさすがにネクターさんへ配慮してくれたのか、ゆったりと川を下っていくことが増えた。
ネクターさんも数分ほどたつと、ようやく落ち着いたのか、船頭さんの話に耳を傾ける余裕が出来たみたいだ。
川沿いに並んだ遺跡の数々、川辺に住む珍しい動物、この辺りのおいしい食べ物……。
船頭さんのトークはどれも面白い。川を下りながら、という非日常な体験と相まって、印象にも強く残った。
*
「はい、到着~! お疲れさん!」
「ありがとうございました!」
川下で船から下りたネクターさんは、お礼もそこそこに深いため息を吐く。
「どうなることかと思いましたが……はぁ……無事に帰ってこれて良かったです」
「ネクターさん、怖いのに、一緒に川下りしてくれてありがとうございました!」
「途中下船が出来ませんでしたからね……。はぁ……もう二度と乗りませんよ」
船がよほど怖かったらしいネクターさんは、なんだかいつもよりかわいらしくて、私の頬が思わず緩んだ。




