91.アオとフランは進化する?
ビットン農園へ行った翌日。
乾期のベ・ゲタルでは珍しく大雨となった。
私たちはお出かけを中止して、ホテルでのんびりと過ごすことに。
窓の外を稲妻が駆け抜けるたび、アオが「ぴぇぇ」と声を上げる。
「アオ、怖いの?」
「ぴぇ……ぴぇ……」
「よしよし、おうちに入っててね。ネクターさんがホテルのお昼を注文してくれたから、後でご飯にしようね」
おうちに一匹じゃ寂しいだろうと外に出していたけれど、さすがにかわいそうだ。
私はアオをそっと持ち上げて……。
「ん?」
その違和感に、アオをフローリングの上に戻す。
「ぴぇ?」
アオは体をくねっと右に傾ける。その仕草はまるで首をかしげているみたいだ。
「アオ、なんかちょっと……」
太った?
口からこぼれそうになった言葉をなんとか飲み込んで、もう一度アオを持ち上げる。
見た目は変わっていないと思う。でも、なんとなく手に持った時のずっしり感があるような……。雨の日は、湿気で膨張するとか?
「お嬢さま?」
「あ、ネクターさん!」
「こちら、お熱いのでお気をつけて。置いておきますね」
「ありがとうございます!」
熱帯域とはいえ、雨が降ると少し冷える。
あたたかいお茶を入れてくださったネクターさんは、カップをリビングのテーブルに置いて私の隣にしゃがんだ。
「どうかされましたか?」
「あ、いえ。その……アオを持ってみてもらえませんか?」
「かまいませんが」
不思議そうな表情をしつつも、ひょいとアオをつまみあげるネクターさん。
手のひらにのせたところで、ネクターさんも何かに気付いたのか「おや」と声を漏らした。
メガネの奥、琥珀色の瞳がキラリと輝く。
「少し重くなっていますね」
「ですよね⁉」
当のアオは自身の変化に興味がないのかどこ吹く風だ。
ネクターさんの手のひらで気持ちよさそうにコロコロと転がっている。
「アオはあまり好き嫌いせずに何でも食べますからね。最近は特によく食べていましたから、これがセージワームでいうところの成長なのかもしれません」
アオも大人の階段を上っているのか。
「見た目には全くわからないのに……」
不思議なものだ。
「一般的に、体重が増えてから体が大きくなるみたいなので、もしかしたら近いうちサイズも大きくなるかもしれませんね」
「進化ですね!」
「進化……? え、えぇ、そういうことになります、かね?」
ネクターさんは指の腹で軽くアオをなでつけると、そのままおうちへとアオを戻す。
先ほどの私とアオの会話を聞いていたのだろう。
「セージワームは雷を怖がる、とは書いてなかったですが、本能的なものなんでしょうか」
と興味深そうにつぶやいた。
*
数分もせぬうち、アオはおうちの中でぐっすりと丸まって眠っていた。
時々、「ぴぇ」と鳴き声がするけれど、何か夢でも見ているのだろうか。
アオを飼い始めてからずっとつけている観察日記にアオの様子を書き止めて、ネクターさんが入れてくれたお茶に手を伸ばす。
ベ・ゲタルのお茶は、シュテープのものと違ってスパイシーな香りがする。
最初はびっくりしたけれど、何度か飲むうちにそれがクセになってしまった。
ピリリとしびれるような辛みが体を温めてくれる。
「そういえば、先ほど、進化と聞いて思ったのですが……」
同じくお茶に口をつけていたネクターさんが顔を上げた。
「お嬢さまも最近はずいぶんとベ・ゲタルの言葉を理解できるようになりましたね」
「へ?」
「昨日、ビットン農園へ行った時に、オーナーさまとも普通にお話をしておりましたし」
言われてみればそうだ。
初めてベ・ゲタルに着いた日は、ホテルの人とお話することすら難しかったのに。
ネクターさんに教えてもらった後も、しばらく自分で勉強をしたり、オリビアさんと連絡を取り合ったりしていたからかもしれない。
「苦手な虫やビートも克服されて。それこそ、お嬢さまが進化されているような気がして」
ネクターさんは「進化」という言葉の響きに苦笑しつつも続ける。
「お屋敷にいらっしゃったころから努力家だとお聞きしておりましたから、お嬢さまからすれば、当たり前のことなのかもしれませんが。本当に素晴らしいです」
虫はちょっと頑張ったけど、オリビアさんがセージワームのことをあきらめずに教えてくれたからだし、ビートだってモカさんたちのおかげで好きになれただけのことだ。
言葉も少しは勉強したけれど、いろんな人たちとお話しして自然と身についたに等しい。
「努力してるって、思ってるわけじゃないので……その、努力家って褒められると、ちょっと照れちゃうというか……」
「そういうところが、素晴らしいんですよ。努力を努力と思わず取り組める方は、ごくまれです」
「でも、それを言うならネクターさんなんて! ベ・ゲタルに着く前から勉強してたし!」
「僕は、お嬢さまの付き人ですから。お嬢さまのために出来ることがあるのなら、些細なことでもするのは当たり前です」
誰かのために頑張れることの方がすごい気がするけれど。そう教えてあげようと思ったけれど、ネクターさんが「それに」と言葉をつづけたから、私は話の続きを待った。
「どんなに努力しても、うまくいかない時はあります。努力をしている。そう思っている人間は、そんなときに折れてしまうんです」
ピシャリ。
窓の外に雷鳴がとどろいた。
ネクターさんの表情は雨に濡れたみたいに切ない。
きっと、まだ私には話せない何かを思い出しているんだろう。彼の過去には、何かある。ネクターさんがそれを、どう思っているのかも知らないけれど……。
「全部うまくやる必要なんて、ない、と思います」
だから、努力してダメなら諦めたっていいし、それを責める必要はないんじゃないだろうか。
「私も、アオのことは好きになれたけど、他のセージワームはまだ苦手ですし、そもそもセージワーム以外の虫は無理です。ビートだって、ミルクとお砂糖がある方がおいしいって思っちゃうし」
それでも、そんな私を褒めてくださるネクターさんみたいな人がいるから、頑張ろうって思えるし、自分が出来ることを全力でやればいいんだって思えるのだ。
「それでもいいって思えるのは、ネクターさんのおかげです」
ありがとうございます。頭を下げると、ネクターさんがぶわりと涙をこぼしたものだから、彼は本当に大雨にでもうたれてきたんじゃないだろうかと思ってしまった。




