89.テオブロマ・ミーツ・ザ・ビート(1)
オーナーさんたちが出迎えてくれた建物へと戻ってくると、建物の外にまであの珈琲のなんともいえない香ばしい匂いが漂っていた。
モカさんたちも顔を見合わせて「気合十分がや」と呟いている。
「オーナー、戻っだよ~!」
二人に続いて私たちも建物の中へと足を踏み入れる。建物の中は、天井も床も壁も、どこもかしこも真っ白で清潔感があった。
「おがえり! さあさ、お二人ともどうぞこちらへ!」
オーナーさんは入ってすぐの扉を開けて私たちを通してくれる。廊下とは打って変わってシックな造りの部屋が応接室らしい。
立派なソファの前、ガラステーブルの上には湯気を立てた珈琲カップが二つ並んでいた。
部屋全体にしみ込んでいるのか、体中が包み込まれるような珈琲の落ち着いた香りがシックな部屋全体に良く馴染んでいる。
「ささ、お疲れでしょう。どうぞ、まずは一杯」
オーナーさんは私たちが座ったのを見届けてから着席し、目の前の珈琲をすすめる。
自慢の一品らしく、どこか誇らしげだ。
もちろん、ミルクと砂糖は入っていない。
カップを持ち上げると、黒い液体がちゃぷんと揺れて、再び香ばしい匂いが鼻を抜けた。
……ん? あんまり嫌いな匂いじゃないかも。
「それでは、失礼して……」
ネクターさんが珈琲の苦手な私を気遣ってか、先にカップを持ち上げて口をつける。
ネクターさんの反応を見ながら、私もおずおずと一口。
あれ?
やわらかく広がる風味は確かに珈琲のそれなのに、フルーティーな酸味を感じる。それもあまりきつくなくて、軽やかな飲みごたえ。
コクもあるけれど、苦みは後味に残る程度で、それも渋みやえぐみがないからか飲みやすい。
「これ……おいしいです……!」
もはや感動に近い。私、珈琲は苦手だったのに!
「全然苦くないです! 爽やかで飲みやすくて!」
「おぉ! そんだば、良がっだです! ビートば飲み慣れでねえ人にも飲みやすいのが、特徴だモンで」
オーナーさんは満足げに目を細めてニコニコと笑う。
「このビートば、特別なビットンを使っどるだば、流通も多くばせんのです。だども、愛好家がいっとう多いんが、このビットンがや」
「へぇ……! でも、この珈琲……ビートは、本当においしいです! 私も、これならなんにもなくても飲めちゃいますし」
その証拠に、私のカップはもう半分ほど中身を減らしている。外に出ていて喉が渇いていたのもあるけど、それ以上にやっぱりおいしいのだ。
「実は、このビットンの品種ば生まれだのは、テオブロマのおかげなんです」
「テオブロマ……って、私たちの?」
「ずいぶんと昔のこどだば、わしも代々親がら聞いだモンです」
オーナーさんはソファから立ち上がって、奥の棚に立てかけられていた写真を取り出した。ソファへと再び腰かけると、その写真をこちらへと差し出す。
今ではもう、ほとんど見ることのできないモノクロ写真。あちらこちらが擦り切れていて、かなり年季が入っている。
「まだ、ビートばあまり有名でねえ、そちらの国でもほとんど扱われでいながっだころの話になります。たまたま、ベ・ゲタルば旅行に来ていたテオブロマの方が、この農園ば見つげで、やっで来だんだと」
きっと、お父さまよりももっともっと前のことだ。
もちろん、テオブロマの貿易業の歩みはお父さまやお母さまからも教えてもらっていたけれど、ビートの話を聞くのは初めてだった。
「そのころば、まだ小さが農園で、ベ・ゲタル国内にもこの農園のビットンば流通しぎっでながったんです。味ば悪くはながろうモンで、徐々に農園を大きぐせんと考えでいだ時でした」
「そこにちょうど、私たちテオブロマの人間が?」
「そうです。そのお方は、ビートばえろう気に入っでくださっで、ぜひシュテープに、と貿易を始めでくださったんですが。何せ、見だこともねえモンですがら、思っだよりは売れねえ」
そっか。初めから何もかもうまくいっていたわけじゃないのか。
私はオーナーさんの話に相槌をうつ。テオブロマが大きくなった話ばかりを聞くから、ずっと成功続きだったんだと思っていたけれど、自分が良いと思っても、他の人にはそれが届かないこともあるんだ。
「そんだば、テオブロマの人たちばたくさんの人を連れで農園に来でくださっで、初めてビートば飲む人にも飲みやすいモンば作ろうって話ばなったんだそうです」
「え⁉ 貿易だけじゃなくて、ビットンの開発までしようとしたってことですか⁉」
「ま、簡単に言えばそうなりますモン。味の好みば人それぞれだば、人は多い方が良がろうと、付き人の他にも、ハウスキーパーからガーデナー、料理人まで連れで、みんながうめえと思うビートば作れるビットンば育てよう、と」
オーナーさんは「ほっほ」と笑い声をあげ、「やることなずこと、全部規格外でぇ」と付け足した。
どうやら、大胆不敵、大盤振る舞い、楽しく、おいしくできればそれでよし、なこの性格は先祖から脈々と受け継がれていたらしい。
「それで作り始めだら、これがもう大変で。それでも、ビットンば完成するまでの間、ずっとご支援をくださりましたし……完成しだら、恐ろしいほどにそれが受げまして」
「それが、このビートの豆、ってことですか?」
「まさしく。名前ば、テオビば言います」
テオビ……。
まさかとは思うけど、テオブロマ・ビットン?
私の考えを読み取ったかのように、オーナーさんが再び声を上げて笑った。
「おそらぐ、お嬢さまがお考えになられでるモンで間違いねえがや。テオブロマと共に開発しだモンでお名前ばいただいたんだと思います」
「すごいですね。まさか、テオブロマにそのような歴史があったとは」
ネクターさんも驚いたように息を吐いた。彼の手元のカップはいつの間にか空になっている。
「それがら、変わっだことも、変わらんかっだこともあります。ビットンの品種ば増えで、テオブロマとの交流が深くなっだり、反対に、テオビの生産が難しぐ、思った以上には増やせねえで、テオブロマと衝突しだことも……」
今でこそ、安定した取引を出来ているのだろうが、当時は大変だっただろう。
それでも、ご先祖様が開発したビットンが今まで飲み継がれているなんて、なんだか感慨深い。
私は最後の一口を飲み干して、その少しのほろ苦さに思いを馳せた。