86.薫る風、ビットン農園(1)
「ついたぁ~~~~っ!」
二時間ものドライブは、さすがに体がかたまっちゃう。めいっぱいに伸びをして、体をほぐす。見れば、ネクターさんは腰のあたりをトントンとたたいていた。ちょっとおじいちゃんみたいだ。
胸元に抱えたおうちへとアオを戻す。アオは、外の景色が見たかったのか、壁を一生懸命よじ登ろうとしていたけれど、さすがにここでは外に出せない。そのまま迷子になっちゃいそうだし。
「迷子にならないところまで来たら出してあげる。ちょっとだけ我慢しててね、アオ」
「ぴぇ!」
アオは、私の言葉を理解したのか良いお返事。そのまま、あきらめたようにコロンと干し草の中に寝転がった。
やっぱり、アオってすっごく賢い子なの?
ネクターさんの後に続いて、駐車場わきの小道を歩く。
すぐに着く、と教えてくれたネクターさんの言葉通り、小道はあっという間に途切れて、目の前に緑がパッと広がった。
「うわぁっ!」
「……これは、思っていたより広いですね」
「ぴぇ!」
アオは見えてないでしょ。
私はお家からそっとアオを出して、手の平にのせてあげる。
「ぴぇぇえええ!」
ビットン農園の広大さを目の当たりにしたアオは再び鳴き声を発する。どうやら相当気に入ったみたい。
小さな木がたくさん――数えきれないほどどこまでも続いている。等間隔で植えられている緑は横にも縦にも伸びていて、上空から見たら絨毯みたいに見えることだろう。
シュテープで見た小麦畑とはまた違う、面白い光景だ。
「本当にすっごく広いです……!」
「ぴぇ! ぴぇ!」
「アオ、大人しく出来る? 出来るなら、このまま一緒に見て回るけど……」
「ぴぇ!」
アオはびしりと姿勢を正す。多分、正している。いつもより心なしかスリムに背を立てるアオに、これなら大丈夫かな、とうなずくと、ネクターさんもうなずいた。
「アオなら大丈夫でしょう。まずは、この農園関係者の方を探さないといけませんね」
キョロキョロとあたりを見回しても、それらしき人影はない。
ネクターさんはハンドブックを開きながら「確か南の方に、建物が」と農園の南側へと目を向けた。
はるか遠く、ビットンの木が何本連なっているか分からないほど向こうに、小さな茶色の屋根が見える。
「あれ、ですかね?」
深い緑の壁が、農園の緑とうまく調和していて、かなりわかりにくいけれど。
派手な色の多いベ・ゲタルでは珍しく落ち着いた風合いの建物を観察していると、煙突から白い蒸気がもくもくと空へ昇っていくのが見えた。
それと同時に、ふわりと爽やかな香りが鼻をつく。
「これ……珈琲の匂いに良く似てる」
「あの建物で焙煎をしているのかもしれませんね。少し遠いですが、あそこへ向かって歩いてみましょうか」
「はい! アオ、落ちないように気を付けてね」
「ぴぇ!」
ビットンの木に近づくと、私の背丈くらいのものから、私の腰くらいまでのものまでさまざまだった。
思っているよりも小さい木だ。枝をよく見ると、赤い実が点々となっている。
「これがビットン、ですか?」
しげしげと見つめると、「そうですね。この辺りはまだ収穫が終わっていないのでしょう」とネクターさんが教えてくれる。
「思っていたより小さい木なんですね。もっと大きいのかと」
「おそらく、野生のものは大きくなるかと。人が収穫をしやすいように、あえてこの高さで育てているんじゃないでしょうか」
「そっか、収穫があるから」
確かにあまり高いところに実がなるととりにくいし。
そんなことを想像して、我に返った私は「え⁉」と声を上げる。
「これを人が一つずつ手作業で収穫するんですか⁉」
「もちろん、全てそうかは分かりませんが。ベ・ゲタルでは、シュテープほど機械化が進んでいない地域もありますし、手作業で収穫しているところもあるかと」
何千本、いや何万本でも足りないくらいたくさんのビットンの木があるのに、それを人で収穫するなんて大変すぎる!
一つ一つは大した時間ではないだろう。けれど、それにしたってすごい量だ。
「今の時期は、ちょうど収穫が終わるころでしょうけど……それでも、この辺りはまだいくつか実も残っていますし。もしタイミングが合うようなら、収穫作業も見せてもらいたいですね」
ネクターさんが言い終わると同時、私たちの背中側からブロロロロ……と重低音が響いた。
当然のことに、私とネクターさんは足を止めて車の方を振り返る。
ドドド、と土を踏みしめるような音と共に現れたのは真っ赤な乗り物だった。
よく見ると女性が二人乗っていて、こちらに大きく手を振っている。
「やっほ~! お二人さん!」
「元気ぃ⁉」
車の音にも負けない底抜けに明るい声は、私たちの返事も待たずに次の言葉を投げかける。
「オリビアの知り合いがや?」
「連絡くれだ人でしょう?」
二人の声がシンクロする。話し方や声音はオリビアさんよりも少し若い。
ベ・ゲタルらしい陽気な雰囲気はまったく一緒だ。
「話ば聞いどるモンで! そろそろかなっで思ってたんよ!」
「ちょうど会えで良がっだ! あすごまで歩くのは大変だば、快適じゃなかけど乗っで行っで!」
二人を乗せた車はグングンと私たちの方へ近づいてくる。
大きな真っ赤な車はそのまま私たちを追い抜くと、道の開けたところで停車した。
車の後ろには大きな荷台がついていて、そこには大量のビットンが入っている。真っ赤に熟れた実が車の揺れに合わせて音を立てたような気がした。
「「ようごぞ、あだす達のビットン農園へ!」」
車から降りた二人は、軽やかに手を広げてにっこりとおそろいのお出迎えポーズ。
姿も顔もよく似ている彼女たちは、双子か姉妹だろうか。
オリビアさんと同じ黒髪は短くそろえられていて、ビットンと同じ褐色の肌が眩しい。
ベ・ゲタルらしい派手なオレン色のつなぎが良く目立つ。
耳元に揺れる大きなイヤリングもかわいらしい。
「よろしくお願いします!」
私が負けじと二人に返事をすると、かたいことは良い、と二人が同時に口をそろえる。
「それよりも、早く農園ば見ていっで! さ、乗っで乗っで!」
乗合バスのように小さな車へぎゅうぎゅうに押し込められた私たちは、薫風に吹かれながら、緑一面の広大な農場を駆け抜けた。