66.元料理長と日没
激ヤバ虫事件はあったものの、晩ご飯の食材はもちろん、食器や調理器具までしっかりとフーズマートで買い物を済ませた私たちは、再びホテルへと逆戻り。
到着した時間も昼を過ぎていたからか、もうすでに日が暮れ始めている。
「ホテルに到着するころには真っ暗ですかね?」
「どうでしょう。うまくいけば、綺麗な日没が見られるかもしれませんね」
「わぁ! 楽しみです! 間に合いますように!」
私がお祈りすると、ネクターさんが行きよりも少しだけ車の速度を上げる。
もちろん、自動運転なのでネクターさんのドライビングテクニックが、なんてことはないのだけれど。
こういうさりげない気遣いが、イケメンをさらにイケメンにしている気がする。
「ネクターさんは、いつ車の免許を取ったんですか?」
「十八になってすぐですよ。テオブロマの料理人として雇っていただいて、最初の仕事としていただいたのが、車の免許を取ることでした」
「そうなんですか⁉」
「テオブロマの料理人は皆、自分の目で使う食材を選ぶんです。そのために、車があると便利だから、とお金まで出していただきましたね」
「ほぇぇ! こだわってるんですね……」
「当時の料理長のこだわりですね。旦那さま方も、すごく信頼されておりました」
「そうなんだ! 全然知らなかったです」
「おかげさまで、僕もずいぶんと色々なことに詳しくなりましたよ」
ネクターさんの博識ぶりは、元料理長のおかげだったのか。
そんなにすごい人なら、一度くらいおしゃべりしてみたかった。
「ネクターさんの前の料理長さんって、私もあんまり会ったことがないんですよね。結構なおじいちゃんだった気がしますけど……」
確か、三年ほど前にもう年だからと言ってお屋敷を辞めていたはず。いつだったか、お母さまとお父さまが「もうこの味は食べられないんだ」と寂しげに話していたのを覚えている。
でも、私にはそれくらい。
普段生活していて料理長とお話する機会なんてないに等しいから、あまり記憶には残っていない。
「料理人としても、一人の人としても、大変素晴らしいお方でした。僕も、たくさんのことを学ばせていただきましたよ」
前を見つめているネクターさんの瞳は、どこか遠くに向いている。当時のことを懐かしんでいるようだ。
「へぇ……。ちゃんと会ってみたかったな」
「そうですね、僕ももう一度、お会いしたいです」
ネクターさんの笑みは寂しげで、きっと伝えたいことや聞きたいことがまだまだたくさんあったのかもしれない。
「今は、何をされてるんでしょうね」
「さぁ……。あの方のことですから、なんだかんだ故郷で料理人を続けているような気がしますが」
「故郷って、どの辺なんですか?」
「それも詳しくは。ただ、シュテープの出身ではないと以前、おっしゃっていましたので、シュテープにはもういらっしゃらないでしょうね」
「そっか……。旅の途中で会えたらいいなぁ」
「そうですね。とはいえ、世界は広いですから。会えなくても仕方ありません」
「会いたい! って思ってたら、きっといつか会えますよ! 私、そんな気がします!」
私が両手をぐっと握りしめて力強くうなずくと、ネクターさんはフッと笑みをこぼした。
「お嬢さまに言われると、本当に会えそうな気がします」
よし、旅の目的を更新だ!
エイルさんのお父さんと、元料理長。その二人を探すこと。
そんなにうまくいくとは思っていないし、本当の旅の目的は別にあるから、ずっと探し続けることだってできないけれど……。
「やってみなくちゃわかりませんから!」
何事も挑戦あるのみ、だ!
決意を固めた私に、ネクターさんも珍しく「そうですね」と素直に肯定してくれる。
どうやら、元料理長には相当会いたいらしい。
そんなネクターさんの姿に、頑張ろう、と一人心の中で呟く。
ネクターさんにはお世話になっているし、少しでも恩返しがしたい。
今すぐにでなくても、出来るところから少しずつ。
気合十分。パチパチと頬を叩くと、ネクターさんはぎょっとこちらを見つめて
「おやめください、お嬢さま!」
と私の奇行を止めにかかった。
*
ホテルに到着したのは、日没直前。
これなら間に合う!
私たちは、はやる気持ちを押さえつつも出来る限りスピーディーに自室へ戻る。
バルコニーへ出ると、今まさに沈もうとするお日さまが海を真っ赤に染め上げていた。
「うわぁぁ! ネクターさん! 見てください! すごいです‼」
「本当ですね。急いで戻ってきて良かったです」
熱帯の湿り気を帯びた風が、私たちの髪を揺らす。
ホテルの真下から広がる一面の緑も、太陽の光を受けて鮮やかな山吹に輝いている。
頭上の空は紺碧のカーテンがかかり始め、海へ向かって美しいグラデーションがかかっていた。
「お部屋がないって聞いたときはどうしようかと思いましたけど! 本当にラッキーですね!」
「えぇ。お嬢さまは本当に運が良い」
「それを言うならネクターさんもですよ!」
頑なにポジティブから逃げるネクターさんの首根っこを摑まえる気持ちでくぎを指せば、彼は困ったように眉を下げる。
「お嬢さまは、時折、本当にずるいことを言いますよね」
「へ?」
「こちらの話です」
わざわざ聞こえるように言ってきたくせに、意味を教えてくれないなんて、それこそネクターさんの方がずるい!
むぅ、と頬を膨らませると、ネクターさんはガシガシと頭をかいた。
お日さまが沈む。
フッと水平線の向こうに光が消えて、空に帳が降りた。
太陽が海に吸い込まれていくみたいに、世界のどこかへ全部の音が吸い込まれていっちゃったんじゃないかって思うような静寂の一瞬。
その隙間を縫って、ネクターさんの声が遠くの潮騒に混ざる。
「ずっと一緒にいると、僕が、僕じゃなくなるみたいで……。胸がザワザワするんです」
お日さまの欠片みたいに綺麗な瞳に貫かれて息を飲む。
「まさか、良い年をしてこんな風に考えるなんて、思いもしませんでした」
ネクターさんは曖昧に微笑んで見せると
「戻って、晩ご飯の準備をしましょうか。外でディナーにするのでしょう? あまり遅くなると、冷えてしまうかもしれません」
私の脇を通り過ぎて、部屋の中へと戻っていく。
私はといえば――
何度となく見てきて慣れていたはずのネクターさんの姿に、なぜか胸が高鳴って、しばらくの間すぐはまともに彼の顔を見ることが出来なかった。