55.旅は道連れ、リターンズ
クレアさんのように同性の方と一緒に旅をした方が安心なんじゃないかとか。
エイルさんのような方と一緒に旅をした方が楽しいんじゃないかとか。
料理長はそんなことをポツポツと並べ立てて、ゆっくりとこちらに猜疑心を向けた。
今までいろんな表情の料理長を見てきたと思っていたけれど――彼から、疑念を向けられたのは初めてだ。
「……つまり、料理長はもう私と一緒に旅が出来ないっておっしゃってるんですか」
「そういうわけでは……。ただ、僕はやはり付き人にはふさわしくないのでは、と。ここから先は、いくら旅行初心者にもやさしいプレー島群の国とはいえ異国ですし」
「でも、今までたくさん助けてもらいましたよ⁉」
「そんなことは! 僕ではお嬢さまを危険にさらしてしまうかもしれませんし、もっと困らせてしまうかもしれないと……」
「そんなことないですよ! 料理長はいつだって助けてくれますし」
「……ですが」
「それこそ料理長がいないと今頃死んでたかもですし」
「申し訳ありません!」
「だから! 土下座禁止って言ったじゃないですか!」
「ま、まだしてません!」
「もう半分してますって! 顔を上げてください!」
いくら宿泊客が少ないとはいえ、まったくいないわけではない。
宿の廊下で、しかも女の子の部屋の前でイケメンが土下座しているなんて事件が発生していると知られたらたまったもんじゃない!
膝を折っている料理長を無理やりに立たせて「大丈夫ですから!」と念押しする。
私は別に怒っているわけでも、料理長を責めているわけでもないのだ。
「僕は……誰かに必要とされるような人間じゃないんです。それこそ、お嬢さまのような素晴らしい方に褒めていただけるようなことは何も」
「たくさんありますよ! 私は、料理長のことをとっても素敵な人だって思ってます!」
「僕は何も……」
「地の果てまでついてきてくれるって約束したじゃないですか!」
思わず私が声を上げると、料理長はびくりと体を震わせて顔を上げた。
ぎょっと見開かれた満月みたいな瞳。そこに映る料理長の本音も今は見えない。
しまった、と思った。
過去のことを持ち出したくなんてなかった。
けれど。
私と料理長は、あくまでもお嬢さまと付き人だ。友達でもなければ、家族でもない。
彼を引き止める理由なんて持ち合わせてなくて、でも、料理長と一緒にまだまだたくさん旅をしたいって思ったから。
「ずるいって分かってます! お屋敷から追い出されて、私以外にすがるものがなかった状況で出た料理長の言葉を、こんなところで使うのはずるいことだって……。私にも、分かってるんです。でも……」
これ以外にわがままを押し通す方法なんて知らなかった。
もっと貿易のことについてちゃんと学んでいたら。それこそ、交渉術を身に着けて、お母さまたちみたいな素敵な大人になれていたら。
料理長に対して何かメリットを提示出来たのだろう。
ちゃんと一対一の大人として、仕事のやり取りが出来たのだろう。
「……料理長と、もっと一緒に旅がしたいんです。次の国でも、その次の国でも……」
「お嬢さま」
「私のわがままなのは分かってます! 料理長はただ巻き込まれただけで、ここまでずっと一緒にいてくださっているのも、料理長が私のお父さまとお母さまに雇われてるからで……何一つ、私の力じゃないんだってことも」
私が泣いちゃだめだ。
ぐっと唇を噛んで我慢したはずなのに、宿の床にパタパタと水滴が落ちた。小さなシミがじわりと広がる。
「お嬢、ざ、まぁ……」
「料理長が泣かないでくださいよ!」
せっかく私が我慢したのに!
この人って本当になんでこんなに残念なの⁉ クレアさんが見たらびっくりして一緒に泣き出しちゃうよ⁉ エイルさんもドン引きだよ⁉
「料理長は何も悪くないです! クレアさんにも、エイルさんにもお仕事がありますし。私は一人になっちゃいます! 旅は道連れ、世は情け、でしょう⁉」
出来る限り明るい声で励ますと、料理長はズビズビと鼻をすする。
私は子供だって思っていたけれど、料理長の方が子供かも……。
「僕は……僕はっ……」
しゃくり上げる声は、いつもの好青年な滑らかさを失ってガラガラとけたたましいくらいにしゃがれていた。
料理長は、何かを隠している。ずっと。
でも、裏表があるような人ではない。
「料理長。お父さまからだけじゃなくて……私からも、もう一度ちゃんとお願いします。お給料はまだ払えないから、後でお給料を料理長にお返しする形になりますけど……。私、フラン・テオブロマの専属の付き人になってください」
断られたらどうしようって、そんなことを考えながらそっと手を差し出す。
お仕事を頼むのって、こんなに怖くて緊張するんだ。
ドキドキとうるさい心臓と、じわりと汗ばんでいく手と。
目の前で必死に涙を止めようとしている料理長の動きと。
その全てがずいぶんとゆっくり感じられるような気がする。
「お願いします、料理長」
ダメ押しに頭を下げる。
お嬢さまとしてではなく――フラン・テオブロマとして。
その沈黙は、とてつもなく長く感じられた。
冷たくて大きくてゴツゴツした男の人の手が指先に触れる瞬間は、とてつもなく愛おしく感じられた。
「僕の方こそ申し訳ありませんでした。こんな僕で本当に良いのであれば……」
料理長の声が頭上に聞こえる。
良かった。料理長もさすがに土下座しなかったみたい。
顔を上げると、涙でぐしゃぐしゃになった残念なイケメン料理長の表情が見える。
「今度こそ、お誓いします。二度と、破ることのないお約束を。僕、ネクター・アンブロシアは、フラン・テオブロマ、あなたにお仕えいたします。テオブロマ家の元料理長ではなく、フランお嬢さま、あなたの専属の付き人として」
手の甲に落とされた人生二度目のキス。
一度目よりも、その感触がはっきりと伝わる。
精一杯の強がりで浮かべられた笑みがどこまでも綺麗で、私は思わず息を飲む。
本当に、どんなことをしたって絵になるんだからイケメンはずるい。
「これからは、ネクターとお呼びください。料理長ではなく」
覚悟のこもった声に、私はうなずく以外ない。確かに、彼はもう料理長ではなかった。
「ネクターさん。これから、よろしくお願いします!」
「はい。お嬢さま。これからも、一緒に旅へ連れて行ってください」
離れた手のぬくもりが寂しく感じられるくらいには、いつの間にか互いの手も暖かくなっていた。