54.琥珀色センチメンタル
漁港の近くに宿をかまえてから一週間。
海の側は穏やかすぎる。のんびりしていたらあっという間に時間が経ってしまった。
クレアさんとのメールを交わしながら、窓の向こうに見える海を見つめる。
海はもう真っ暗。ポツンと浮かんだお月さまが海面でゆらゆらと揺れているだけだ。
ザァン……。
砂浜に打ち寄せる波の音も哀愁を呼び覚ますみたいで、ちょっとだけ寂しくなってしまう。
「お母さまたち、元気かな……」
最近はお母さまもお父さまもお仕事が忙しいのか、以前ほど頻繁に連絡も取れなくなってしまった。
お休みの前にしていた電話も「今日は出来ない」とメッセージが届いていたくらいだ。
寝るにはまだ少し早い。
明日は、エイルお母さんの経営しているレストランにもう一度行こうという約束を料理長としているだけで、特にそれ以上の用事もないし。
そろそろ次の町へ行こうか、なんて話もあがっているけれど、料理長が次の目的地を悩んでいるらしい。
移動が多すぎると疲れてしまうから、と私のことまで配慮してくれているみたい。
私もどこに行きたいとか、もうちょっとちゃんと考えなくちゃ。ほとんど考えなしで動いているから、計画も何もないし……。
とはいえ、基本的なシュテープの観光地は、子供のころからよく連れて行ってもらっていたし、勉強という意味では少し違うような気がする。
せっかくなら、行ったことがないような場所に行ってみたいけれど……。
そういうのはどうやって調べるんだろう。
料理長、まだ起きてるかな? この時間なら、聞きに行っても迷惑じゃないよね。
よし!
立ち上がった瞬間――コンコン、と扉がノックされた。
「はい?」
扉をそっと開けて外を窺うと、見慣れたアンバーの瞳。
「料理長!」
「すみません、夜分遅くに」
「そんなことないですよ! ちょうど、私も料理長のところに行こうと思ってたんです!」
扉を開けて中へ招き入れようとすると、料理長はその場で立ち尽くしたまま。
「料理長? 入らないんですか?」
首をかしげると、料理長は戸惑いを表情に出した。
「いえ……。その、お嬢さま……大変申し上げにくいのですが、あまり男性をこんな時間に招きいれるものではないかと」
「え? なんでですか?」
「初日から思っておりましたが……お嬢さまは、少々人を信頼しすぎていると言いますか」
「でも、料理長が悪い人じゃないのは知ってますし!」
「ですが」
料理長はまっすぐにこちらを見つめて、開いた扉に片手をついた。
私に覆いかぶさるような影が降ってきて、料理長に見下ろされる形になる。
見上げた先にある琥珀色の奥に、見たことのない『何か』が宿っている気がした。
ピリピリとした緊張感が私の背筋を駆けあがっていく。
「……料理長?」
「もう少し、テオブロマ家の一人娘であるということ以前に、妙齢の女性であるということを自覚していただけると大変助かります」
「みょーれい?」
「若くて美しい、という意味ですよ」
「うつ……⁉ りょ、料理長! そういうことは! これから言いますよって宣言してから言ってくださいよ!」
「なんですか、それ」
「照れるじゃないですか! っていうか、そのうち死人が出ますよ⁉」
「死人⁉ ぼ、僕は! そんなつもりでは……!」
反射的にのけぞった料理長は再び部屋の外に出ると、仕切りなおすように息を吐く。
「とにかく、気を付けていただけると嬉しいです。今までは、皆さま良い方たちばかりでしたが、シュテープを出たらどうなるか分かりませんから」
料理長はポケットから何やらカードを取り出した。
「先ほど、僕のもとにリッドが届きました。旅券の発行も完了して、こちらに登録されておりましたのでそのご報告に、と」
どうやら本題はそちらだったようだ。
「料理長にもカードが出来たんですね!」
「お嬢さまが持っているリッドほどの機能はありませんので、通話やメッセージのやり取りは出来ませんが」
「料理長とはずっと一緒にいるんですから、大丈夫ですよ! 必要なら、電話だけでも別で買いましょう!」
「そうですね。残高も確認できましたし、旅券の他にも保険証や免許証などの身分証明書の類が登録されていたので、ご迷惑をおかけすることはないかと」
「じゃあ、お給料未払い事件も⁉」
「未払い事件って……。でも、まぁ、そうですね。そちらも解決しました」
「よかったぁ!」
ほっと胸をなでおろすと、料理長は申し訳なさそうにしつつも曖昧に微笑んでくれた。
もしかしたら、お母さまたちが気を回していろいろと手配してくれたのかもしれない。
「あっ! ってことは、料理長、もう次の国に出発出来るってことですか⁉」
「そうですね。後は船や飛行機のチケットさえ取れれば問題ないかと思います」
料理長はそこまで言ってから、突如口をつぐんだ。
あ、この感じ……。料理長のネガティブモードが始まる時のやつだ。
なんだかなんだ長い時間一緒にいるせいか、最近は料理長のほんの些細な表情の変化で察することが出来るようになってきた。
料理長は存外分かりやすくて、気持ちのほとんどが顔に出る。
「実は、そのことで少し……」
「土下座はなしですよ!」
先回りすると、料理長はびっくりしたような顔で「ししし、しませんよ⁉」とあからさまな動揺を見せた。
する気満々だったんじゃん!
「それで、料理長は改まってどうしたんですか?」
改まった話なら、中でゆっくり座って話せばいいのに。
扉をもう一度開けて促しても、料理長は頑として動くつもりはないらしかった。
急かしても良いことはない。
ネガティブオーラを背負い込んだ料理長を見つめて続きを待つ。
彼の口が開かれたのはそれから数十秒が過ぎてからのことだった。
「……お嬢さまは、本当に旅を続けられるおつもりですか?」
「へ?」
「その旅に、本当に僕が同行してもよろしいのでしょうか」
ブロンドヘアの隙間から覗く、綺麗な琥珀色が揺れる。
宿の窓から見えていた、海に浮かぶお月さまみたい――
胸がきゅっと縮んでしまうような、寂しさを感じさせるような、そんな瞳がそこにはあった。




