36.目指すべきものへ向かって
「ちょ、ちょっと待ってください! メイド長! 待って!」
カードを必死に握りしめる。このままじゃ本当に料理長が解雇されちゃう!
「どうかされましたか、お嬢さま」
「どうかされましたかっていうか! 私、料理長のこと、別に嫌いだとか思ってませんし!」
「あの男は顔だけですよ。後は少し料理が出来るくらいなもので、性格だって最悪です」
「最悪⁉ そりゃ、ちょっと変なところはありますけど、そこまで言うほどのことでは」
「いいえ。お嬢さまはだまされているのです。あの男の、傲慢で人を人と思ってもいないような態度……」
「え?」
それ、本当に料理長のこと?
私の知る料理長は自分のことを人だと思っていないくらいの腰の低さだ。
「とにかくお嬢さま、あの男に脅されてかばっているのでしたらご安心ください。奥さまも旦那さまも、わたくしが説得して見せますから」
「メイド長⁉」
本当になんの話をしているのか分からなくなってきた。
だって、あの料理長だよ? 超ネガティブで、十個も年下の女の子に向かって平気で土下座出来ちゃうような人だよ⁉
「とにかく! いくらメイド長でも、私の専属の付き人を勝手に解雇するようなことは許されません! 私は料理長と旅をするのだって楽しいし、今日だって、料理長は私の友達を助けてくれたんですよ⁉」
そんな人を解雇だなんて! と必死にメイド長を説得すると
「お嬢さま、それはアンブロシアの話……ですよね?」
メイド長の訝しむような声色が聞こえた。
「嘘なんかつかないですよ! メイド長だってよく知ってるでしょう?」
「もちろんです。お嬢さまをお疑いするなんて……。ですが……その、本当にあのアンブロシアが人助けを?」
「そうですよ! そもそも、私のことだってたくさん助けてくださっていますし!」
電話の向こうで、メイド長が首をひねっているような気がする。
カメラをオフにしているから顔は見えないけれど、こういうときの予感は大抵当たるのだ。
「……お嬢さま。もう一度だけ確認しますが……本当に、アンブロシアと旅を続けていかれるのですか」
「もちろんです! ようやく料理長とも仲良くなれてきたし! それに、結構楽しいですよ! いろんなものも食べれて、いろんなものも見れて!」
「……わかりました。良いでしょう。今回はお嬢さまのお言葉に免じて、アンブロシアの勤務態度については言及いたしません。ですが」
二度はないと思っていてください。
メイド長のゾッとするほど底冷えした声がスピーカーに響く。
隣で料理長がぶるりと身を震わせた。
「それではお嬢さま、お気をつけてお過ごしくださいね」
メイド長の声色がガラッといつもの穏やかなものに戻って逆に怖い。
「決してご無理だけはなさらずに。それから、食べ過ぎにもお気をつけて。そろそろ冷えてきますから、あたたかくしてお過ごしください。それから……」
「わかりました! 分かりましたから! メイド長も、お仕事頑張ってくださいね!」
長くなりそうだ。私が言葉を遮ると、メイド長はやっぱりいつも通りの優しい声でお別れの挨拶を告げる。
「何かあれば、いつでもお申し付けくださいませ。わたくしは、いつでもお嬢さまのメイド長ですから」
ありがとうございます、と電話を切れば、なんだかちょっとだけ寂しい沈黙。
いや、寂しいと思っているのは私だけで、多分料理長は心底安堵しているようだったけれど。
「料理長、メイド長に何やらかしたんですか?」
二人の関係性があまりにも気になり過ぎる。というか、メイド長の知っている料理長と、私が知っている料理長は別人なんじゃないかって思うほどだ。
「……いえ。その……全面的に僕が悪かったとしか言いようがありません」
料理長はメイド長に怒られた後だからか、バツの悪そうにボソボソと答えるだけ。その全貌を教えてくれないあたり、よほど何かあったのだろう。
「料理長には、なんだか秘密がいっぱいありそうです」
「人は誰しも秘密を持っているものですよ」
「私にも欲しいです!」
「ない方が良いですよ」
料理長が口を閉ざす。
おそらく、秘密と呼んでいる過去のこと。それを、これ以上話さないようにするためだろう。
すごく嫌なことだったみたいだ。
「今日は、そろそろ帰りましょうか」
力なく笑って優しくこちらを気遣うような料理長の姿がなんだか痛々しい。
大人になるって、本当にこういうことなのかな。
「疲れちゃいましたもんね! 料理長も、メイド長が言ってたみたいに、あったかくして、無理しすぎないで……えっと、後なんだっけ? とにかく、ゆっくりしてください!」
「ありがとうございます」
ちょっと無理があったかな。
暗い雰囲気は苦手だから、無理やりにでも笑顔を作ってみたけれど。
でも。
「お嬢さまは、本当にお優しいのですね」
料理長がどこか安心したようにそんな笑みを浮かべるものだから、自分は間違ってなかったんだって思える。
「料理長だって、十分優しいと思います!」
「いえ、僕は……」
「自分のことは、自分が一番よく知っていて、でも、自分が一番よく分かってない! ですよ!」
「……どなたかの名言ですか?」
「メイド長です!」
「なるほど。彼女らしいですね」
茜色のさす空を仰いで、料理長がポツリとこぼす。
「お嬢さまの隣に立つに相応しい人間にならなくてはいけませんね」
夕日の色と混ざり合った綺麗な横顔に覚悟が滲んでいるように見えて、なんだか照れくさい。
「それじゃあ、私は立派なレディになるために。料理長は、立派な私の付き人になるために! まだまだ頑張らなきゃですね!」
自然と一歩、足取りは軽く。
「晩ご飯は何を食べましょうか!」
追い越した料理長の方を振り返って、正面から彼の顔を覗き込む。
料理長は一瞬ポカンと口を開けた後、
「お嬢さまは、本当に食べることがお好きですね」
と笑った。




