302.メイド長と料理長の
「またあの男と旅行に⁉」
私が夏休みの予定を告げたその夜、メイド長が今までにないほど大きな声を上げた。
「お嬢さま! どうしてそこまであの男に執着なされるのです⁉ あんな男……! そりゃあ、お嬢さまとの旅から戻ってきてからは、ちょっと丸くなったと言いますか! 性格も少々マシにはなりましたが!」
「まぁまぁ、メイド長、落ち着いて……」
着せてもらったパジャマを整えて、私はなぜか憤慨しているメイド長をドウドウとなだめる。
「っていうか、どうしてメイド長はそんなにネクターさんのことが嫌いなんですか? 旅を始めたころは、解雇する! って聞かなかったですし」
素早く私のベッドメイキングを始めているメイド長の背中に問いかけると、彼女はくるりと振り返った。
わお。そのお顔、鬼の形相ってやつですね。
メイド長、よっぽどネクターさんと何かあったんですね。
「お嬢さまには言っておりませんでしたが、私とアンブロシアは同期なのです」
「同期? 同期って、会社で同じ年度に入社した人って意味の同期ですか?」
「えぇ。奥さまがあの男をシェフとして雇い入れた年、わたくしはテオブロマの秘書課の人間として入社しました」
「メイド長が秘書課の新人さん⁉」
「えぇ。わたくしは元々、テオブロマ家ではなく、貿易業テオブロマの社員として雇われたのです。当時は奥さまの秘書を務めていた上司の元、様々なことを勉強しておりました」
メイド長の意外な過去に、私は思わず身を乗り出して耳を傾ける。
「それで、どうしてお屋敷に?」
「わたくしの働きを気に入ってくださった奥さまが、お嬢さまの世話役としてわたくしをテオブロマ家のメイドに人事異動させたのがきっかけでした」
メイド長はそのころのことを思い出して、懐かしそうに遠くを見つめる。もちろん、ベッドメイキングする手は止めない。見ていないはずの手元は、シーツのしわを綺麗に伸ばしている。
「お嬢さまの世話役をするかたわら、給仕や掃除のお仕事も仰せつかりましたが……ある日、奥さまから深夜にお夜食を頼まれて……あの男に出会ったのです」
メイド長の口調が突如忌々し気なものに変わる。あぁ、きっとここで嫌なことがあったんだな、と察することが出来る程度には顕著だ。
「当時、あの男の噂はメイドの間でも持ちきりでした。見た目だけは良いでしょう? だから、みんな騙されていたんですよ。天才料理人だなんてもてはやされて!」
「め、メイド長……何があったんですか?」
「まず、夜食を作ろうと厨房に入ったところで怒られました。とんでもない形相で、素人がキッチンに入って来るな、と。料理人は大抵夜の食事が終わると帰宅します。ですから、わたくしは深夜に料理人が屋敷に残っているとは思っておらず、突然のことに驚いてしまって。それだけなら良かったのですが、料理の手伝いをしようとしたら文句を言われ、それでも何か手伝うことはないかと食い下がれば謎の食べ物を口に入れられて……。思い出しても腹が立つ。今食べたものが何か分からないなら出て行け、とまで!」
メイド長の愚痴が止まらない。大洪水のように勢いよくあふれだす憎悪の念は、過去のネクターさんがどれだけ傲慢で、プライドが高く、孤独だったかを表していた。
なるほど。ネクターさんは過去のことを悔やんでいたけれど、これは確かに黒歴史だ。
「そういうことが何度かありまして……。わたくしが毎回意地を張っていたのも原因のひとつですが、あの男とはとにかく馬が合わないのです!」
「い、今はそんなことないですよ。本当に、ネクターさんもすごく変わりましたし。そりゃあ、昔はほら、色々あったかもしれないですけど」
無理に仲良くしろとは言わないが、私の専属の付き人であるネクターさんをあまり悪く言われるのも耐えられない。
もちろん、私はメイド長のことも好きだし、彼女の言い分もわかるけれど。
「も、もちろん……それは分かっております。ですが、その……わたくしは、お嬢さまのお世話係としてお嬢さまを小さなころから見守ってきたつもりですから。それをあんな男に奪われるなんて……」
なんだかそれって、やきもちみたいに聞こえるけど……。
メイド長は悔しそうに唇を噛みしめると、枕のしわを綺麗に整えて、作り笑いを浮かべた。
「すみません。ずいぶんと愚痴が多くなってしまいました。あの男のことを、認めていないわけではないんです。戻ってきてから、彼はわたくしに謝罪をしてくださいましたし、今からなら、もう少し分かり合えるような気もしておりますから」
「それなら、良かったですけど……。その、メイド長はもしかして、ネクターさんに私をとられるとおも……」
私の言葉を遮るように、メイド長は「失礼します」とうやうやしく頭を下げる。
「待って!」
私が慌てて彼女の手を掴むと、メイド長は驚いたようにこちらへと振り返った。
その顔は、いつも見ているクールで美人なメイド長の表情とは思えないほど、かわいらしいもので。
「メイド長、私のことを思ってくださっていたんですよね⁉」
「なっ! べべべ、別に! お嬢さまをその辺のポッと出の男に盗られたからって拗ねているわけじゃあ!」
「えへへ、嬉しいなぁ! 私もメイド長のこと、大好きですよ! 今は、ネクターさんが専属の付き人ってことになってますけど! 私にとっては、メイド長は第二のお母さまであり、唯一無二のお姉さまだと思ってますから!」
私がデレデレとメイド長の腕に頬ずりすると、みるみるうちに彼女の顔は耳まで赤くなっていく。
最終的には、ぷしゅぅ、と頭から湯気まで出てるんじゃないかってくらいだ。
「……お嬢さま、からかわないでください!」
「メイド長もかわいいところがあるんですねぇ! いつか、メイド長とも一緒に旅がしてみたいです!」
「……よ、良いのですか⁉」
「もちろんです! 女子旅って素敵じゃないですか⁉」
「その時は全力でお供させていただきます!」
メイド長がなぜか涙を目にためてガシリと私の手を握る。
どうやらご機嫌もなおったようだ。
「はい! 約束です! メイド長、いつもありがとうございます! おやすみなさい!」
私がメイド長の手をほどくと、彼女は泣きそうになりながらも
「おやすみなさいませ」
と美しいお辞儀をして部屋を出ていった。
その後、扉の向こうで、なんの偶然かメイド長がネクターさんと出くわしたらしく、
「わたくしも、いつかお嬢さまと旅行に行きますから!」
とネクターさんに謎のマウントを取っていた声が私のもとまで聞こえていたのは……メイド長には内緒だ。