300.シュテープ帰国後の二人は
「もぉ~っ! 毎日毎日、数字と文字とグラフが羅列された資料ばっかり見るなんて聞いてないよぉっ!」
私は、いくつものグラフや船のルートが映し出されたモニターを前に、大きなため息を一つ。
せっかくテオブロマ家の跡継ぎとして貿易商の第一歩を踏み出したというのに、現実は世知辛い。
いろんなところに旅に出て、おいしいものを買いつけて、他の国への交易ルートを確保して……。
なんて、そんなことを考えていた私が甘かった。
私はいずれ会社を背負う立場になる。
つまり、私に与えられる仕事は企業の経営に関することばかり。現地に行って品物を見るなんて言語道断なのだ。
部下のみんなが集めてくれた資料や調査書、それらのまとめに目を通し、今の流行りや国内外の動き、政治的なことまで全てをパズルのようにくみ上げる。
最適な品物、輸送経路、価格設定から現地での商流開拓を検討し、お母さまとお父さまに最終判断をしてもらうのが今の私の役目だ。
「もっといっぱいいろんな国に行けるんだと思ってたのに……」
武者修行から帰ってきて、気づけば春も終わってしまった。
結局、お仕事のせいでネクターさんとは時折食事を共にするくらいで、旅行に行く暇もなく、朝から晩まで様々な資料とにらめっこしてばかり。
「でもでも! もうすぐ夏休みだし! 夏休みは自由に過ごして良いって言われてるし!」
だから、それまでは頑張らなくちゃ。
私は自らの頬をペチペチとたたいて気合を入れなおす。
今の仕事だって、想像していたものとは違っていたけれど、決してつまらないわけじゃない。
むしろ、いろんな国のことを知ったからこそ、興味を持っていろんな品物の調査も出来るし、船の状況や政治的状況、文化の違いについても考えることが出来る。
「ベ・ゲタルの昆虫食だって、今はちょっとしたブームになってるし……。紅楼国の香炉も女の子たちにすごく人気だって聞いたし! まだまだ他の国の魅力も知ってもらわなくちゃいけないもんね!」
自分で選んだ品物がシュテープ国内で流行した時の快感も忘れられない。
逆もしかりだ。クレアさんが作った商品は国内だけでなく、他国でも人気を博していて、今や彼女は人気デザイナーの仲間入りを果たしている。
私自身が世界に認められているみたいだと思えば、悪くないお仕事だ。
事実、文句はいうものの、いざ資料を見始めたらだんだんと集中してしまって、気づけば外は真っ暗なんてこともよくある。
「でも、さすがに疲れたぁ……」
私は大きく背伸びして、窓にかかった電子スモークを解除する。
「うわ」
真っ暗だ。やっちゃった……。今日こそは早く帰ろうと思ってたのに……。
というよりも、早く帰らねば、またネクターさんからお小言をいただいちゃう。
「うぅ……。また怒られちゃう……。食べるのが遅くなるほど体には悪いんですよって声が聞こえてくる気がするぅ……」
「お嬢さま。おっしゃる通りです。食事の時間は遅いほど、体には悪影響ですよ」
「そうそう。そんな感じで……って、ひゃいっ⁉」
私が慌てて振り返ると、そこにはなぜかネクターさんが。
しかも、珍しくよそ行きの格好だ。いつもお屋敷で見るエプロン姿でもない。
「なっ! なんでここにネクターさんが⁉ ここは会社ですよ! ネクターさんは、お屋敷にいるはずじゃ⁉」
「近頃、お嬢さまのお帰りが遅く、そろそろお体に差し支えがでるのではとお迎えに上がりました」
「ど、どうやってここまで来たんですか⁉」
「車ですが」
「そうじゃなくて! 社員証とか! それに、このフロアは専用のカードキーがないと……」
ネクターさんは「これのことですか」と魔法のカードを胸ポケットから取り出す。
呆れたようにため息をついた彼は、そのカードをポケットに戻すと、
「お嬢さま。僕は料理長兼お嬢さまの専属の付き人ですよ」
と私にじとっとした視線を送った。
「……そ、そうでした……」
「お仕事に一生懸命なのは良いことですが、それが原因で体調を崩しては元も子もありません」
「ごめんなさい……」
働きすぎて味覚を失ったネクターさんに言われると、説得力がありすぎる。
無事にお屋敷の料理長に戻ったネクターさんは、みんなと協力して今までよりも効率的に、けれど素晴らしいお料理を作っていると聞く。
過去を乗り越え、彼は変わった。
「今日は、久しぶりに外で食事にしましょう」
「え⁉」
「おいしいお店を見つけたんですよ。ドライブがてら、寄り道をして帰りましょう」
「良いんですか⁉」
「お嬢さまがお疲れでなければ、ですが。近頃のお嬢さまは根を詰めすぎですからね。たまには休息も必要でしょう」
ネクターさんはにっこりと笑うと、私の頭を優しく撫でて「さ、帰りましょう」と執務室の扉を開ける。
「ここから出たら、僕も仕事は終わりです。今日は旅の相棒……えぇっと、お嬢さまの言葉で言うなら、マイメン、でしたか……として、お食事でも」
冗談めかして肩をすくめるネクターさんに、私もつられて笑ってしまう。
ネクターさんと一緒に外で食事だなんて、いつぶりだろう。それこそ、旅が終わって以来?
なんだか嬉しくなって、私の足取りは自然と軽くなる。
「んふふ、ネクターさんにそう言ってもらえるなんて思いませんでした! 嬉しいです! 旅のことを思い出しますね!」
「えぇ。懐かしいです。今日のお食事も、きっと喜んでいただけるかと」
「なんてお店ですか?」
「行ってからのお楽しみです」
ネクターさんはしーっと人差し指を唇に当てる。
旅の最初に比べたら、本当に明るくなったし、お茶目になったな。ネクターさん、相変わらずギャップ大魔神だ。
「もっと大人になったら、ネクターさんの魅力が分かるようになるのかなって思ってたんですけど……。はぁ……。ネクターさんってほんとずるいですよねぇ。それとも、私が大人になったってことなのかなぁ」
私が呟くと、当の本人は全く聞こえていなかったのか、執務室の扉を施錠しながら
「何かおっしゃられましたか?」
と不思議そうに首をかしげた。
「なんでもないです! さ、早くご飯に行きましょう!」
「えぇ。今日も、たくさんのおいしいものを食べましょうね」