299.幕間・見届けた人たちのある日
「まったく、あなたたちってば。本当に驚かせるんだから!」
もう! と頬を膨らませているのはフランの母親である。
目の前に座っているフランとネクターは「すみません」と小さくうつむいている。
旅に出る前は互いのことも知らないような関係性だったのに、今ではすっかり似た者同士だ。
「まったくだよ! アンブロシアくん! いいかね! フランは僕のかわいい娘なんだから! 言葉には気を付けてくれたまえ!」
フラン溺愛の父親もまた、二人の婚約発表かと思った、と憤慨に近い表情だ。
実際のところ、父親としてはかわいい娘をどこの誰とも知らぬ輩に盗られるくらいなら、誠実で真面目でイケメンで料理の出来るネクターに、とは思うものの。
よくよく話を聞けば、
「テオブロマ家の料理長に戻してほしいの!」
「料理長に戻っても、時々お嬢さまと一緒にお食事をしたいのです!」
「ちょっとくらい、一緒に旅行に行ってもいいでしょう⁉」
と、かわいらしい純粋なお願いごとばかり。
そういう関係性になってくれていた方がむしろ健全だったのではないかと思うほど、二人は不思議な絆で結ばれてしまったらしい。
互いを主従関係であると分かっていながらも、気の置ける友人や家族のように感じているのだというから、両親は「最近の若い子って難しいわね」と苦笑するしかない。
「そもそも、私たちは確かにアンブロシアさんを料理長から解雇して、フランの付き人にしたわ。でも、テオブロマをクビにした覚えはないわよ」
「えっ⁉」
母親の言葉に、フランが「そうだっけ!」と真面目な顔で驚いている。
「どうしてあなたたちが、アンブロシアさんをクビだと勘違いしたのかは知らないけれど、あくまでもちょっとした人事異動よ。もちろん、料理長として戻ってきてもらうつもりだったし、そのために席も空けたままにしている」
「で、ではどうして! 突然、僕をお嬢さまの専属の付き人に……?」
ネクターが素直に疑問をぶつければ、今度は父親が呆れたように笑みを浮かべた。
「そうでもしなくちゃ、君は休まないでしょう。僕らが君の体の異変に気付いていないとでも思ったかい。君には少し荒治療だったかもしれないけれど、この方法が最適だと思ったんだ。これでもテオブロマの社長だからね。人を見る目と、人を育てることには自信を持っているつもりだよ」
「それじゃあ、お母さまたちは最初からネクターさんが味覚を失ってるって知ってて⁉」
「味覚を失っているかどうかまでは分からなかったけれど、アンブロシアさんが何か悩んでいることくらいはお見通しよ」
「そんな……」
ネクターが驚きに声を失うと、両親は二人して口角を上げる。
「テオブロマの社長と社長夫人を舐めてもらっちゃ困るわ」
「そうだよ。アンブロシアくん、君はうまく隠していたつもりかもしれないけれどね」
してやったり、といたずらな表情を見せる二人は、まるで子供みたいだ。
「だったら最初からそう言ってくれれば良かったのに!」
「何を言っているの。フラン、これはあなたの武者修行よ。困っている人一人を助けられないで、どうしてテオブロマを継げると思っているのかしら」
「そうだよ。仕事には正解のない問題ばかりだ。それを解決する能力を養わなくちゃ」
完璧なまでの回答をして見せた二人に、フランもそれ以上の文句は言えない。
全て詭弁かもしれないが、何もかもこの両親の手のひらの上だったようで悔しかった。
「でも、想定外のことだらけだったわ。私たちの想像以上に、フランも、アンブロシアさんも成長した」
「そうだね。二人は、本当によく頑張ったよ」
両親が素直にフランとネクターを褒める。
フランとネクターの旅は、本当に終わりを迎えるようだ。
「だから、お願いごとは叶えてあげることにするわ。本来ならば、ただの料理長とテオブロマ家の一人娘を……それも、これから経営を担う社長候補を、二人で一緒に旅行させるだなんて、と思うのだけれど」
「アンブロシアくんには、フラン専属の付き人の肩書も残っているからねぇ」
両親はフッとやわらかな笑みを浮かべた。
フランの誕生日、二人に屋敷からの追放を告げた時のように。
「ネクター・アンブロシア! ただいまより、君を料理長兼フラン専属の付き人として任命する! というわけで! これからもフランのそばにいてやってくれ!」
父親の唐突な人事発令に、ネクターがパチパチとまばたきを繰り返す。
「えっと、つまりそれは……」
「これからもネクターさんと一緒にいてもいいってこと⁉」
フランがガバリと席から立ち上がると、両親は同時にうなずいた。
「やったーっ! ネクターさん! お屋敷に戻ったら、これからは一緒にご飯を食べましょう! それから、お仕事のお休みはお出かけしておいしいものを食べに行って! あ、そうだ! 今度はクィジン大陸にも行きましょうね! 他の国にも行きたいし……」
フランの欲望はとどまるところを知らないらしい。
しかも、そのどれもが食べ物にまつわるものか、旅行に関わるものばかりで、両親もこれにはついつい笑みをこぼしてしまう。
恋愛の一つでも覚えてくれれば、とも考えていたが、それはまだまだ先のことになりそうだ。
自分の子供はいつまで経っても子供。
そろそろ親離れならぬ子離れをしなくては、と両親も考えていたのだが、そう認識せざるを得ない。
ネクターはいまだ驚きを顔に浮かべたまま、けれど、嬉しさを隠し切れないでいた。
両親の反応を窺うように
「もちろん、お供させていただきます。地の果てまでも」
とフランの無邪気なお願いに同意する。
もちろん、料理長としての責務も果たさなければならない。
だが、今までとは違う。ネクターも、一人ではできないことがあると知った。
今度は、他の料理人たちとも協力してやっていける。
「もちろん、フランはきちんと仕事が出来るようになってからよ」
「そうだよ。ここからは本当にテオブロマを背負って行ってもらうんだからね」
思い出したように、両親はいまだはしゃいでいるフランに喝を入れる。
フランは「う」と一瞬顔をしかめたものの「絶対に、今よりもっと良い貿易商になるよ!」といつも通りの満面の笑みを浮かべた。
こうして、お嬢さまと料理長の奇妙な食べ歩き旅を見届けた二人の日常も終わりを告げる。
両親は、成長した二人の姿にやわらかく目を細めた。