29.誘惑のセイレーンチェア
「誘惑のセイレーンチェア?」
看板にでかでかと書かれた文字を読み上げて首をひねると、屋台で店番をしていたお兄さんが純朴な笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。観光ですか?」
「はい! さつまいも蒸しパンがおいしいって聞いて来たんですけど……誘惑のセイレーンチェアってなんですか?」
目の前の蒸し器にはほかほかと湯気をあげるさつまいも蒸しパンの姿が見えるのに、ここで売られているのは『誘惑のセイレーンチェア』らしい。
素朴な蒸しパンとグラマラス美女な海の魔物セイレーンが全く結びつかない。
「あぁ、すみません。さつまいも蒸しパンのことを、ここでは誘惑のセイレーンチェアと呼んでいるんです。この村の特産品として親しんでいただくための愛称ですね」
「愛称! でも、どうしてセイレーンチェア?」
「実際にお手に取ってみていただければ、理由が分かると思いますよ。いくつご用意いたしましょう」
「ほわぁ! 気になる売り文句だ! お兄さん商売上手です! 二つお願いします!」
「はは、ありがとうございます」
まさか、こんな風にさらっと営業されてしまうとは。
気になるキャッチフレーズで興味をひきつけて、実際に商品を手に取らせる。なるほど、これも商人の知恵か!
カードで支払いを済ませると、素朴なお兄さんの表情が崩れるくらい驚かれたけれど、私たちは無事に蒸しパンを受け取った。
包み紙ごしにほくほくとあたたかな温度が伝わってきて幸せだ。
「見ればわかるって言ってたけど……」
広場に並んだテーブルの空いている席に座って、ガサガサと包み紙を開ける。
中からゴロゴロとしたさつまいもの塊が顔をのぞかせた。
「パン……?」
宿屋のおばさまは「ケーキみたいなものだ」と言っていたはずだけど、私の目には、パンにもケーキにも見えない。
ほとんどがさつまいも。かろうじて生地で繋がれているのはわかる。
ゴツゴツとした見た目が石や岩のように見えて……
「あ!」
そういうことか!
「セイレーンが座る岩みたいな形だから、セイレーンチェアってことですね!」
私が顔を上げると、料理長は大きくうなずいた。
「さすがです、お嬢さま。まさにその通りです」
どうやら料理長は誘惑のセイレーンチェアという別名も知っていたらしい。
「でも、どうしてセイレーンなんですか?」
この村は別に海に面していないし、セイレーンとの関わりなんてなさそうだ。
しかも、私からすれば怖い魔物のイメージしかない。
あまり数は多くないが、年に一度か二度は必ずセイレーンによる船の被害が出ると聞く。
お母さまたちも、過去に何度か商品の取引をおじゃんにされたと言っていた。
美しい歌声で人々を惑わして、船の遭難や沈没を引き起こす魔物を特産品の愛称に使うだなんて。
「大人の事情を考えれば……この村は元々、特産らしい特産というものがありませんでしたから、村おこしのためにそういった珍しいネーミングで人々を呼びたいという気持ちが大きいと思いますが」
「うわぁ……聞きたくなかったです」
さすが料理長は料理に詳しい。無駄に。本当に無駄に! っていうか普通、そんな闇の部分から暴露する? 大人超怖い。
「表向きには、お嬢さまのおっしゃる通りですよ。セイレーンの腰かける岩礁によく似た形なので、セイレーンチェア。さらに言うならば、香りや見た目、味で人々を誘惑する食べ物ということで、誘惑のセイレーンチェアと名付けられたのでしょう」
裏側を見せられた後に表側を見せられると、素直に感動できないのはどうしてだろう。
とはいえ、確かにこのさつまいも蒸しパン、改め、誘惑のセイレーンチェア。
先ほどから、優しい香りで空腹にダイレクトアタックしてくる。まさに誘惑だ。
「セイレーンは確かに厄介な魔物ですが、その歌声は一度聞くと忘れられないとも言いますし、それにあやかっているのかもしれませんね」
料理長はフォローともつかぬ一言を添える。どう考えたって、もう遅いけれど。
何はともあれ、百聞は一食にしかず!
「我らの未来に幸あらんことを」
私たちはしっかりとお祈りをすませて、セイレーンチェアにかぶりついた。
「ん! んんぅ~! ほくほくだぁ‼」
出来立てをもらったから、生地の中はまだまだ熱いくらい。
はふはふと口の中で冷ましながら、ゴロゴロとしたおいもを味わう。
角切りにされた大きめのさつまいもは蒸されていて柔らかい。
おいも独特のねっとりとした食感と甘みが口いっぱいに広がり、思わず顔がほころんでしまう。
自然な甘みだからか上品だし、あたたかくて優しいお味だ。
「蒸されてる生地のところも、超モチモチですね! パンとかケーキって感じでもないし、不思議な食感です! すごく満足感があります!」
「小麦がほとんど使われていないからこそ、所々にあるもっちりとした食感が際立つのかもしれませんね」
さすが料理長! 感想は苦手って言ってたけど、お料理の分析がすごい!
まさに、おいもがしっかり詰まっているからこそ、たまにおいもの隙間から現れるもっちりとした小麦の部分がより引き立っている気がする。
ほくほくともっちりの絶妙なバランス。本当にちょっとだけ塩気があって、おいもの甘さがさらに引き出されているのも、完璧なバランス。
はっ! もしや、セイレーンのもつ恐怖と美しさのバランスまでも再現しているとでもいうんじゃ⁉
「負けました」
深く頭を下げる。顔を上げると、目の前に座っていた料理長が不思議そうにこちらを見つめていた。
「なんのことでしょう?」
「セイレーンってイメージ悪くない? とか思ってすみませんでした!」
この村の特産品は最高です! テオブロマでも扱いませんか! この商品は素晴らしいです‼
その後、私が「めちゃめちゃおいしいです」と何度もつぶやいたせいか、料理長は
「お屋敷でもお出しすればよかったですね。僕としたことが大変申し訳ありません! こんなだから、僕は……」
と、いつも通りの地獄まっしぐら暴走列車に乗り込んでしまった。
セイレーンさん! お願いです!
料理長のネガティブな妄想を海の底に沈めてください!
心の中でそんな願掛けをしてみたけれど、残念ながら、セイレーンの歌声は聞こえなかった。




