286.本番へ、カウントダウン
ネクターさんによる地獄の特訓は想像以上に厳しかった。
味覚を失うより前のネクターさんはこうだったのだろう。簡単にその姿を想像出来てしまうほどには容赦がない。
飾り一つ作るにも時間を計測され、少しでも過ぎれば時間内に作れるようになるまでそればかりをやるように指示される。それが終わったら、次は別の飾りだ。
時間内に完成しても見た目が悪いとやり直しなんて当たり前。もちろん、その間の工程も細かくチェックされる。
「お嬢さま、ここに皮が残っておりますよ」
「はい!」
「お嬢さま。チョコレートに気泡が。テンパリングはきちんと出来ていましたか?」
「すみません!」
「お嬢さま!」
この調子である。
もちろん、ネクターさんも私を指導する立場だからといって自分自身のレシピ開発を怠るなんてことはしないし、技術だって磨き続けている。
毎日、試食を頼まれることがそれを裏付けているし、その試食がどんどんとおいしく、洗練されていくのだから私も弱音を吐いてなどいられない。
スイーツコンテストはもう目前だ。
レシピもようやく完成形に近づいてきているし、後は制限時間内に作り上げる技術だけがあればいい。
私に人並みの技術が身に着けば、優勝も夢じゃない。
ほんの少しの妥協もミスも許されない一発勝負のコンテスト。その運命は私の手の中にあると言っても過言ではないのだ!
ぺちぺちと頬を叩いて気合を入れなおす。
「よし! ネクターさん、もう一回お願いします!」
用意された薄いチョコレートの板を前に、私はナイフを握る。
「では、いきますよ……」
ネクターさんはゆっくりと深呼吸をしたかと思うと、「スタート」と静かな声で合図を告げた。
同時に、ピッとストップウォッチが音を立てる。
一秒でも早く、少しでも丁寧に。気分はネクターさんだ。
チョコレートの上に置かれた型紙に沿ってナイフを引いていく。手首だけじゃなくて、肘からしっかりと体に引き付ける。
力が均一にかかるように体重をナイフ全体に乗せて。
スッ、スッ、スッ、スッ――コトン。
ナイフを置いて、チョコレートを板から取り外す。型紙をチョコレートからはがせば、ピピッとストップウォッチの止まる音が聞こえた。
「……時間は、制限時間以内ですね」
ネクターさんの言葉に、まずはホッと息を吐く。第一関門突破だ。
「次に、見た目ですが」
ネクターさんは私からチョコレートを受け取ると、腕いっぱいに伸ばして遠くからチョコレートを観察した。
表裏に汚れがないかどうかはもちろん、切られた断面や、全体の形まで。
採点されていると思うと緊張する。
先ほどまで集中してナイフを握っていたせいもあってか、手のひらにはじとりと汗がにじんだ。
たかがチョコレートを一枚、正方形に切り出しただけだ。それでも、このチョコレート一つが勝敗を左右するかもしれないと思うと体が強張る。
「……良いですね。合格です」
ネクターさんはニコリと微笑むと、私の方へとチョコレートを戻す。
「本当に成長されましたね。とても良い出来だと思います」
「良かったぁ~! これを一生の宝にします! 私が死んだら一緒にお墓に入れてください!」
「さ、さすがにそれは無理かと……」
ネクターさんは「そこまで嬉しかったのですか」と笑うけれど、私にとっては一番の課題だったのだ。
特に私は体温が高いのか、チョコレートが溶けてしまうことも多かったし。
「後は、二人で作業分担をして無駄な時間がないようにすれば問題ないですね」
ネクターさんも私が最低限の技術を備えたと分かったのか、少し肩の荷が下りたようで、やわらかな表情を見せる。
最近のネクターさんはスパルタだったし、穏やかな笑みは久しぶりだ。
「とはいえ、油断は出来ません。会場の設備がどのレベルのものか分かりませんし、大抵の場合、トラブルというのは本番で起こるものですから……」
「うっ……。せっかく喜べると思ったのに!」
だが、ネクターさんの言う通りだ。
様々なトラブルを想定しておけば、何かあってもパニックにはならないだろう。
少なくとも私は、オーブンの予熱温度を間違えて火事の一歩手前になったってもう驚きはしない!
「まあ、今日くらいは少し休憩をしても良いでしょう。コンテストまで時間がないことは確かですが、だからといって根を詰めすぎて、本番に体調を崩しては元も子もありませんから」
ネクターさんはパンパンと手をたたいて、片づけを始める。
どうやら今日は本当にこれで終わりにするらしい。
「おや、終わったのかい?」
片付けの音が聞こえたのか、レックさんがキッチンに顔を出す。
「無事に終わりました! 今日で、ネクターさんからのテストも最後だったんですよ!」
「それは良かったね。おめでとう! 二人の本番がすごく楽しみだよ!」
レックさんと「わーい」と両手でハイタッチすると、ネクターさんが苦笑する。
「ほら、お嬢さま。片付けまでがお料理ですよ」
「はーい!」
コンテストが終わったら、レックさんたちにもお礼しなくちゃ。毎日キッチンを貸してもらって、遅い時には日付が変わる直前まで練習させてもらっていたんだし。
片付けを終え、明日以降のキッチンを借りる話も済ませた私たちは帰路につく。
デシは日の入りがはやい。もう空にはいくつもの星がまたたいている。
「……なんだか、あっという間ですねぇ」
コンテストまで、まだ時間はある。明日が本番という訳でもない。
けれど、こんな風に練習を続けていたら、一瞬にして本番を迎えることになるだろう。
「コンテストが終わったら……」
ネクターさんは言いかけて言葉を止めた。首を軽く二度、三度と振って
「いえ、今は目の前のことだけを考えましょう」
と遠くを見つめる。
旅の終わりを考えても、寂しくなるだけだ。
残された時間をどうやって一生懸命楽しむか。それだけを考える方が建設的だ、とネクターさんは前向きにとらえたのかもしれない。
「まずはコンテストの優勝ですね!」
私がネクターさんの背中をトンとたたいて、一歩前へと大きく踏み出す。
後ろを振り返ってネクターさんに笑いかければ、彼はまぶしいものでも見たというように目を細めた。