25.そのパン、ノスタルジック味(2)
差し出されたバターロールを受け取って、私はそっとそれを半分にちぎる。
ふわりとやわらかに別れていくバターロールの断面から、小麦の甘い香りとバターの香りがほのかに立ち込めた。
良く知っている懐かしい香り。
通っていた学園はもちろん、一般家庭でも、テオブロマ家でも良く食卓に並ぶ。つまり、この国の代表的なパンの香りだ。
「この町から国都へ出稼ぎに行った人々が、口をそろえてこのパンが食べたいと言っていたんだそうです。それをたまたま奥さまが聞きつけて……」
「お母さまが?」
「国都の市場のパンギルドでパンを買っていたら、そんな話が聞こえた、と。それで、どれほどのものか気になってこの村まで一人で来たんですな」
仮にも、当時から大企業だったであろうテオブロマの息子の婚約者。その人物が、護衛もつけずに一人でこの村まで来たなんて。
きっと……。
「後からこっぴどく叱られたそうですが」
「やっぱり! 私も昔、すっごく怒られたことがあります!」
「はは、そこもそっくりとは! シュテープも安全な国とはいえ、悪人がいないわけではありませんからなぁ」
でも、まさかお母さまがそんなことをするだなんて思わなかった。
料理長も初めて聞いたのか目を丸くしている。
私たち二人の反応に、工場長も苦笑した。
「正直、わたくし共も驚きましたよ。テオブロマ家から来た、なんて言われては追い返す訳にもまいりませんし、わたくし共も倒産の危機ですから。ここで、テオブロマの方に気に入っていただければ、とバターロールを食べていただくことにしたのです」
「良ければフランさまも一口どうぞ」と促され、半分にちぎったバターロールの片方を口に運ぶ。
もっちりとした食感のパンは、噛むたびにじゅわりとたっぷりのバターがあふれてくるようで、その塩気がたまらない。溶けていくようになめらかな生地から小麦本来の甘さが広がって、やがて幸せな余韻が残る。
「……やっぱり、何度食べてもおいしいです!」
「そうですね。素朴だからこそ飽きがこず、何にでもあいますし」
同じくバターロールを食べていた料理長もうなずいた。
料理人からしても、これほど万能なパンは珍しいようだ。
「奥さまもそうおっしゃって気に入ってくださいまして! そこからテオブロマとの関係が始まり、あっという間に国都の……シュテープの味として広まりました」
「え⁉ お母さまがこのパンを広めたってこと⁉」
お母さま、このバターロールが食卓に出てきてもそんな素振りは一切見せなかったのに!
「テオブロマのお力あってこそ、です! 余らせていた土地もあっという間に足りなくなるほどで。おかげさまでこうして工場も大きくなりました。テオブロマ家には頭が上がりませんよ」
私もお母さまに頭が上がんないよ!
思わず「分かります」なんて相槌を打ったら、工場長が不思議そうな顔をした。
「元々、テオブロマが持っていた販路も大きかったでしょうが……当時から奥さまは、良いものを良いと判断できるだけの審美眼をお持ちだったのですね」
「アンブロシアさまのおっしゃる通りにございます! 奥さまは、特に食べることがお好きだとおっしゃっておりましたから、食べ物については特に素晴らしい舌をお持ちだったと」
料理長と工場長は何かを分かり合ったかのように互いに顔を見合わせて、シンクロしたまま私へと視線を向けた。
ばっちりと二人の目がこちらに向いて、何事か分からないのは私だけ。
「そういった能力が、お嬢さまにもそのまま引き継がれているような気がします」
「えぇ。わたくしもフランさまにお会いしてそう思いました。お人柄も含めて、きっとお母さまのような素晴らしいお方になられるのでしょうね」
「ほえ⁉」
突然褒められて、何がなんだかよく分からない。
お母さまに似てるっていうのも、自分じゃよく分かってないし。
でも。
「これからお母さまみたいになれるように、精一杯頑張ります!」
そのための旅だ。
料理長がここへ連れてきてくれたのだって、私にいろんなことを知ってもらいたかったからだろう。
こうしてお母さまの話が聞けたことは偶然かもしれないけれど、何か運命めいたものだって感じる。
「素晴らしい。それでこそ、テオブロマ家の次期当主です」
「お母さまもお喜びになられますな! これからも、わたくし共のパンを何卒よろしくお願いいたしますよ!」
「はい! 工場長、料理長、これからもよろしくお願いします!」
お母さまみたいに立派なレディになれるように、たくさん学ぼう。
この国のことも、周りの国のことも。
「ささ。まずはたくさん食べて体力をつけてください。うちは広いですから、見て回っていただくところも多くて、しっかり食べておかないとお疲れになられてしまうかもしれませんよ!」
工場長は、自分のお皿に盛っていたパンを、私のお皿にこれでもかと取り分けてくれた。
最初からこうするつもりで、たくさんの料理を盛り付けていたのかもしれない。
料理長も、自らのお皿に盛りつけたお料理をしっかりと平らげていく。
お皿いっぱいのパンはたくさんの種類があったけれど、どれも本当においしかった。
木の実がたっぷり入ったパン、ベーコンをはさんだパンに、ゴマを練りこんだスティック状のパン。
デザート代わりのチョコレートが練りこまれたパンも、クリームとフルーツがたっぷり入ったパンもおいしかった。
最後に、半分だけ残ったバターロールを口へほうり込む。
たくさん食べておなかいっぱいのはずなのに、すんなりと受け入れられる素朴さも良い。
甘いものを食べた後でも、自然な甘みだから素直に食べられる。
おうちでお母さまたちと朝食を囲んでいた時のことを思い出して、なんだか懐かしくなってしまう。
食べていて、こんなにもノスタルジックな味だと思えるのも、このバターロールだけかもしれない。
「工場長!」
「どうされましたかな?」
「このバターロール、工場で買えますか? お母さまに送ってあげたいんです!」
「お代は結構ですから、いくらでも……」
「いえ! ちゃんとお金は払います! って言っても、これもお母さまのお金ですけど……きっと、お母さまもそうしなさいっておっしゃると思うから」
魔法のカードを取り出すと、工場長はびっくりしたように目を見開いたけれど、すぐに笑みを浮かべて「そういうことなら」とうなずいた。