223.海の底、特別なとき(1)
「ふわぁぁぁ……」
潜水艇がゆっくりと沈む。ガラスの向こうを覆う青がどんどん濃い色へと変化し、それに呼応するように潜水艇の周りを泳ぐ魚たちの数は増えていく。
「すごいです! ネクターさん‼ ほらみて、あそこ! お魚が!」
「イワシですね。あぁ、あそこにはタイが」
ネクターさんもキラキラと目を輝かせ、すぐそばを泳ぐ魚たちを眺めては笑みを浮かべる。
さすがはズパルメンティ。水の国と呼ばれるだけのことはある。
まさかこんなにも身近に海を感じる日がくるとは思わなかった。
「ネクターさん、一緒にお写真を撮りましょう!」
「二人で、ですか?」
「もちろんです! 超フォトジェです! っていうか、もはや絵画レベルです‼」
私がカードをかまえると、ネクターさんは改めてその画面に映った自分たちの姿に驚いていた。
「なるほど。絵画ですか……」
妙に感心している真顔が面白くて、私は思わずシャッターを切る。
もちろん、二人での撮影だけじゃなくて、ネクターさんに写真を撮ってもらったり、ネクターさんを写真に撮ったり。
ネクターさんを撮った時は、あまりのイケメンぶりに、もはや映画を見ているんじゃないかって気分になるくらいだった。
「絵画って、上手すぎると写真みたいだって言われますけど、写真も綺麗すぎると絵画みたいですねぇ」
撮った写真を眺めて呟くと、ネクターさんは不思議そうに首をかしげる。
あなたのことですよ、ネクターさん。
やがて潜水艇が動きを止めると、各テーブルにお料理が運ばれてきた。
乾杯はもちろんナーヴィで。
グラスを持ち上げると、ちょうど魚が通りすぎて、まるでワイングラスの中まで海みたい。
「「乾杯!」」
カチャンと鳴ったグラスの音は、お星さまがはじけたみたいに綺麗だった。
運ばれてきた一品目は冷菜。
ズパルメンティのお魚とホタテをお野菜と一緒にゼラチンで固めた綺麗なテリーヌ。
色鮮やかな見た目は、ゼリーの輝きと相まって芸術品みたい。
ナイフとフォークで丁寧に切り分けて口へ運ぶと、爽やかながらも上品な味がふわっと口に広がる。
「……おいしい! このゼリーがお出汁の味なんですね⁉ 薄口だけど、素材の甘みが感じられて、本当に絶妙なバランスです!」
「出汁の味が上品ですよね。ホタテの下処理も丁寧でやわらかいですし……」
私はネクターさんの解説を聞きながら二口目をいただく。
シャキシャキとしたお野菜の食感と、ホタテとお魚のやわらかな食感、ゼリーのなめらかさ。それぞれ口の中で個性が際立っていておもしろい。
おいしさを少しでも長く味わっていたくて、私はゆっくりとテリーヌを堪能する。
窓の外を泳ぐお魚たち、遠くで揺れるイソギンチャク。広がる鮮やかなサンゴ礁。
景色と一緒にお料理を食べれば、なんだか物語の世界に迷い込んだみたいだ。
テリーヌを食べ終えたら、次はスープと前菜が運ばれてくる。
スープは足長エビを使ったもの、前菜は三種類のお料理が綺麗に盛り付けられている。
「左から、サーモンのクリームチーズロール、生ハムと洋ナシのサラダ、トマトとオリーブ、アンチョビのピンチョスになります」
「本当に美しいですね」
色鮮やかで華やかな見た目に、私よりも先にネクターさんが感嘆の声を漏らした。
「三品のバランスも完璧です。味覚を全て刺激するような構成になっていると言いますか……。シェフを呼びたいくらいです」
「料理長がシェフを呼べ、なんて」
私が思わず吹き出すと、ネクターさんが「そ、そういう意味では!」と慌てふためいた。
すっかり一人の客としてお料理が楽しめているらしい。
以前は、お料理を楽しむことも難しそうだったから、ウェスタさんの言うように時間をかけて少しずつ気持ちも回復しているのかもしれない。
実際、前菜やスープを楽しみながら、
「正直、絶対味覚を失って良かったかもしれない、と思っているんです」
とネクターさんは小さく笑みを浮かべた。
「絶対味覚があった時は、何を食べても、何の調味料がどの程度入っているのか、使われている食材は何か……色々と考えてしまって。食事を楽しむ余地はほとんどありませんでした」
「それは大変そうです。……ん! ネクターさん、ピンチョスもおいしいですよ! アンチョビの独特の苦みとトマトの甘酸っぱさが! 最高の組み合わせです!」
「サーモンのクリームチーズロールもおいしいですよ。なめらかで、濃厚なコクがあります」
ネクターさんに勧められてクリームチーズロールも口に運べば、また違った味わいが口に広がる。
旨味はもちろん、甘みや酸味、苦み、塩味が、一品ずつに詰まっていて絶妙だ。
黙々と食べる手を動かしていると、先に食べ終えたネクターさんがナーヴィを口に運んでゆっくりと息を吐いた。
静かな海を見つめるアンバーの瞳は、海底で輝く星のように綺麗で。
「今は、料理そのものをただおいしいと思える。こんなに幸せなことだとは思いませんでした。ずっと、忘れていたことです」
ネクターさんの口調は、まるで独り言みたいだ。過去の自分と会話しているみたい。
私は邪魔をしないように、料理を食べながら静かにうなずいて続きを促す。
「強く願うほど、心が体を動かす。フォロ料理長が言っていた意味が分かりました。絶対味覚でなくてもかまいません。僕は、この感動をもっと噛みしめていたい」
ネクターさんのすぐそばを、鮮やかな魚がひらりと優雅に泳いでいった。
彼はその尾ひれを追いかけて、視線をゆっくりと私の方へと動かす。
「お嬢さま、もしも……」
ネクターさんが何かを言いかけたそのタイミングで、店員さんが次のお料理を持ってきた。
そのせいか、ネクターさんはハッと我に返ったように「なんでもありません」と微笑んだ。
「隠し事はなしって言いましたよね?」
途中で話を止められては気になる。次のお料理をおいしく食べるためにも問いたださねば。
私がネクターさんの方をじとりと見つめると、彼は「いえ」と首を横に振った。
「大したことではありませんよ。いつだったか、料理長になることが僕の最後の夢だと言いましたが、今、もう一つ夢を見つけたので。そのご報告をしようと思っただけです」
軽くあしらうように並べられた言葉は、嘘ではなさそうだけれど。
肝心な夢を聞くことは出来なかった。