216.治療は焦らず、ゆっくりと
翌日、すっかり体調も回復したネクターさんと一緒に、私はウェスタさんの診療所へと訪れていた。
診療所内はどこかリラックスできる雰囲気だ。大きな水槽やたくさんの観葉植物が余計にそう感じさせるのかもしれない。
見たことのない機器もたくさん置いてあって、ネクターさんはそれに興味津々だった。
「あんまり病院っぽくないですね」
意外だと素直に告白すれば、ウェスタさんはリビングのローテーブルにジュースを並べながら笑う。
「そうかもしれませんね。内科もやっていますが、心療内科と魔法医学がわたくしの専門なんです。さ、どうぞおかけになってください」
ウェスタさんに促されてソファに座ると、彼は早速薄型のディスプレイを取り出した。
いよいよ、ネクターさんの診療が始まるらしい。
「えっと、私は同席しても……?」
「お嬢さまには、一緒に聞いていていただきたいのです。僕はもう、お嬢さまには隠し事をしないと約束しましたから」
気まずくなったりしないだろうか、とネクターさんを窺ったけれど、どうやら本心らしい。
「今更聞かれて困るような話はありません」
ネクターさんはニコリと微笑んで、ウェスタさんに「お願いします」と頭を下げる。
「それでは、まずは……アンブロシアくん。君の今の症状を教えてくれ。分かる限りでかまわない。言葉にできないようなら、無理にうまく表現しようとしなくても良い」
ウェスタさんの穏やかな口調は、自然と緊張をやわらげる。
心療内科を専門としていると言っていたから、人をリラックスさせる方法も知っているのだろう。
ネクターさんも、元々ウェスタさんを尊敬しているからか、素直に今の症状や味覚障害になった経緯を話していく。
何度聞いても彼が味覚を失ってしまった時の話には胸が痛むけれど、諦めなければ必ずなんとかなるとこの旅で学んだ。
ネクターさんが話し終えると、ウェスタさんは何やらディスプレイのタッチパネルを操作する。
しばらく操作を続けた後、静かに一人うなずいた。
「……うん。状況は分かった。ここからは、治療法を探すための簡単な検査をいくつかしよう。フランさま、すみませんが検査の間はこちらでお待ちください」
もちろんだと首を縦に振ると、ウェスタさんとネクターさんは別室へと移動していった。
*
「お嬢さま、検査結果が出ました。良ければ、ご同席を」
水槽を眺めていると、ネクターさんが私を呼ぶ。
検査結果がどうであれ受け止められるように、と待っている間覚悟を決めたつもりでいたけれど、やっぱり緊張する。
「……ふ、どうしてお嬢さまが緊張を?」
顔が強張っていたらしい。ネクターさんは、こらえきれない、というように口元を覆って肩を揺らす。
「だって! 普通は緊張しますよ! ネクターさんには元気になってもらいたいですし!」
「……十分、元気をいただいておりますよ。勇気や、希望や、それ以上の想いも」
いつもはネガティブなネクターさんも、なぜか今日は清々しい表情で堂々としている。
落ち着かないのは、いつもは自分よりもうんとパニックになっているネクターさんが、やけに冷静だからかもしれない。
別室の扉を開けて、私たちはウェスタさんと向かい合う。
ウェスタさんはディスプレイを眺めていて、メガネの奥に見える瞳は真剣そのものだった。
「余計な前置きは無しにしましょう。やはり、アンブロシアくんの味覚障害は、精神的なものが大きく影響していると考えられます」
向き直ったウェスタさんは、ネクターさんから視線を離さなかった。
事実を淡々と述べる口調は医者のものだが、にじみ出る優しい声色からネクターさんへの気遣いが感じられる。
「検査の結果、身体的な異常は認められませんでした。症状は回復傾向にあり、これ以上治療薬で即効性があるものは今のズパルメンティでも見つけられません」
「……つまり、完全には治らないってことですか?」
「いいえ、フランさま。それは違います。治る可能性もあります。アンブロシアくんがそれを心から望めば、決して不可能なことではないかと」
ウェスタさんは私を安心させるためか、深い笑みをたたえる。
「本来、精神的な傷を完全に癒すことは難しいのです。ですが、今のアンブロシアくんはそれらを乗り越えようとしています。精神的にも回復の兆しが見え、それが身体的にも現れている」
ウェスタさんはディスプレイの画面を切り替えていく。映し出されている心と体の相互作用についての資料は、私たちにも分かりやすい内容だ。
「ですから、薬ではなく時間を使って治療しましょう」
「時間?」
ネクターさんの問いに、ウェスタさんは小さくうなずいた。
ディスプレイを資料から真っ白な画面に切り替えると、そのままネクターさんの方へ端末を差し出す。
「アンブロシアくんが食べたいと思うもの、行ってみたいと思う場所、やってみたいこと。なんでもかまわないよ。そこに、気が済むまで書き出してみてほしい」
「僕の願い、ということですか……」
「強く願うほど、心が体に大きく影響を与える。脳や神経が働くんだ。もちろん、それは味覚に限った話じゃないよ。五感は密接につながっているからね」
ウェスタさんの説明を受けて、ネクターさんは少し考えた。
ディスプレイを受け取ると、端末についていたペンをゆっくりと動かして何かを書き留める。
「フランさまに、それをお見せできるかな」
「お嬢さまに、ですか?」
「一緒に旅をしているんだろう? 君は従者で、フランさまは主だが……今、アンブロシアくんに最も近い存在がフランさまだ。そんな彼女に君の想いを伝えることはできるかい?」
私は「なんでもこいです!」と胸をたたく。
けれど、ネクターさんの耳が次第に赤くなっていき、最終的に彼は口元を手で覆ってしまった。
「何を書いたんですか?」
つい気になってしまってディスプレイを覗き込むように顔を動かせば――
『お嬢さまと一緒に、もっと料理を楽しみたい。ずっと』
ネクターさんは真っ赤になった顔を背けて、「一言余計でした」と呟く。
最後に書かれていた、ずっと。余計な一言とは、その言葉をさしているのだろう。
けれど、その「ずっと」が、私にはたまらなく嬉しくて。
どうしてだか、私の顔まで赤くなっているような気がした。