215.縁は再び結ばれる
「お嬢さま!」
ホテルの夕食を食べ終えて、のんびりとくつろいでいた私は、ノックの音でベッドから飛び起きる。
声の主は見ずともわかる。そして、私を呼ぶ理由もおそらく……。
「料理長が!」
扉を開けた瞬間、ネクターさんがこちらへと詰め寄ってきて、私は思わず扉を閉めそうになった。
分かってはいたけど、急にイケメンが目の前に現れたら誰だってそうなると思う。
「えぇっと、とりあえず……こんばんは、ネクターさん」
私が先に挨拶をすれば、ネクターさんも我に返ったのか「こんばんは」と頭を下げる。
どうやら昨晩から今日にかけて安静にしていたからか、体調も回復したようだ。
昨晩のような無理をしている雰囲気もないし、熱も下がったのだろう。
もしかしたら、朝もウェスタさんが様子を見に来てくださっていたし、そのおかげかも。
「それで、ネクターさん。料理長というのは、後ろにいらっしゃるウェスタさんのことでしょうか」
突然部屋を飛び出したネクターさんを追いかけてきたのだろう。彼の後ろで苦笑しているウェスタさんの方へと視線を動かせば、ネクターさんはバッと後ろを振り返った。
「フォロ料理長!」
「もう僕は料理長ではないよ、アンブロシアくん」
肩をすくめるウェスタさんは、私と話す時とは違ってくだけた口調だ。それがネクターさんとの関係性をうかがわせる。気取らない話し方はネクターさんそっくりで、ネクターさんがどれほどウェスタさんから影響を受けたのかが分かったような気がした。
「さ、レディの部屋の前で騒ぎ立ててはいけない。一度、部屋へ戻ろうか。フランさま、突然申し訳ありませんでした」
「いえ! もしよかったら、私がそちらのお部屋にお伺いしましょうか? きっと、ネクターさんも混乱していると思いますし、説明が必要かと」
風邪がうつっちゃいけないから、とウェスタさんには言われたけれど、さすがにこのままネクターさんを放っておくわけにはいかない。
ウェスタさんから説明してもらってもいいけど、ネクターさんの体調のことは私も気になるし。
「そうですね、少しの時間でしたらかまいませんよ。窓を開けて換気しましょう。フランさま、冷えるかもしれませんから上着を」
ウェスタさんは、私の心情を汲み取ってくださったようだ。
穏やかに微笑んで「もちろん、かまわないだろう?」とネクターさんに確認する。
部屋の主であるネクターさんはいまだ現状が飲み込めていないようで
「かまいませんが、その……一体、何が、どうなっているのか……」
と数度まばたきを繰り返した。
三人でネクターさんの部屋に戻って、それぞれ空いている席に腰かける。ネクターさんはベッドに座り、私とウェスタさんはソファだ。
ウェスタさんが窓を開けて換気すると、雨の匂いが部屋の中に入り込んできた。
「それで、その……」
話を切りだしたのはネクターさんだ。
当たり前だけど、おそらく一番状況が分かっていないからなんとかそれを整理したいのだろう。
「どうして、料理長がここに……」
ウェスタさんを見る目は驚きに満ちていて、それと同時に彼が白衣を着たお医者さまであることにも困惑を覚えているようだった。
「紹介状を書いただろう? 僕も、まさかその相手がアンブロシアくんだとは思わなかったけれどね」
「……紹介状……」
「フィーロさんが手配してくださった紹介状です」
「えっ⁉ だってあれは医者の……」
「だから、そのお医者さまがウェスタさんなんですよ、ネクターさん。私もびっくりしましたけど」
私とウェスタさんが顔を見合わせて笑うと、ネクターさんはあんぐりと口を開ける。
しばらくハクハクと呼吸を繰り返すばかりで、ようやく出てきた言葉もかすれてほとんど音にはなっていなかった。
「……料理長が、医者……?」
「だから、僕はもう料理長ではないんだよ」
「そんな、ことが……」
「過去の話もしたことはなかったし、退職の際も詳しいことは話さなかったからね。アンブロシアくんが驚くのも無理はないさ。事情はフランさまから聞いたよ」
ウェスタさんは整えられた白髪を軽くなでつけると、いまだ驚いているネクターさんに向き直る。
「申し訳なかった。君には、ずいぶんと苦労をかけてしまったね」
ウェスタさんが頭を下げると、ネクターさんは物凄い勢いでベッドから立ち上がった。
「そんな! フォロ料理長が謝るようなことは何も! むしろ、僕は料理長のご期待に応えることが出来ず、皆に迷惑を……!」
ネクターさんまでもが頭を下げ、挙句の果てには土下座をしようとするものだから、これでは何がなんだか分からない。
ウェスタさんでさえ、ネクターさんの行動には驚いたのか頭を上げて
「やめてくれ。君に謝られる資格なんてないんだ」
と慌てふためいた。
おそらく、ウェスタさんが知っているネクターさんはもっと尖っていたから、土下座するネクターさんに動揺しているのだろう。
「とりあえず、二人とも落ち着いてください! 特にネクターさん!」
私が無理やり間に割って入れば、二人は我に返ったのか、お互いにそそくさと姿勢を正した。
「……それで、その……料理長が、医者として、僕のことを……?」
「出来過ぎた偶然だとは思うけれどね、それが縁ってものなのかもしれないね。とにかく、また会えて嬉しいよ。元気にもなったようだしね」
ウェスタさんが穏やかに笑って見せると、ネクターさんも照れ臭そうにはにかんだ。
ようやく落ち着いて、ネクターさんにここまでのいきさつを話すことが出来る。
ウェスタさんの経歴や料理長を辞めてからのことも全て話せば、ネクターさんは驚きを隠さずに、けれど、真剣に、話に耳を傾けていた。
「……そう、ですか」
全てを聞いて、ネクターさんは押し黙る。
良い治療薬は見つからないかもしれない、と。その話まで聞いて、現実を飲み込んだらしい。
咀嚼するには時間がかかる。
そこを急いでは消化できない。
私とウェスタさんも、ネクターさんを見守る以外になく、彼が次の言葉を発するまでの数分はただひたすらに待ち続けた。
やがて、ネクターさんが口を開く。
「……診療を、お願いします。少しでも可能性があるのなら」
それに、とネクターさんは続ける。
「僕は、あなたのことを尊敬しているのです。料理長としても、医者としても。フォロ料理長、どうかアドバイスをいただけませんか」
ネクターさんからの強い信頼に、ウェスタさんもまた、しっかりとうなずいた。