214.回復の兆し求めて
「ネクターさんの味覚を完全に戻す薬はないって……どういうことですか……」
私の質問に、ウェスタさんは視線をさまよわせる。なんと答えるべきか悩んでいるのだろう。
私は焦る気持ちを落ち着けるために、運ばれてきたホットレモネードに口をつけた。
爽やかで甘い香り。悲しい気持ちを、動揺する心を、静かになぐさめてくれるような優しい味。
私がほっと息を吐くと、ウェスタさんもカップを下ろす。
彼もまた、決心がついたようだ。
「……あくまでも推測ですから、正しい診療をしてみないとわかりませんが」
ウェスタさんの前置きに「かまいません」と首を振る。
「お話を聞くに、アンブロシアくんが患った味覚障害の原因は、体ではなく心にあるように思うのです」
「心……」
「アンブロシアくんは、料理人として完璧であらねばと思うあまり、その重責から味覚を失った。身体的な問題は、薬でなんとかなるかもしれません。ですが、精神的なものは薬では完全には治せない。治せる可能性があるとすれば……」
「何か方法があるんですか⁉」
「フランさまとの、異世界食べ歩き旅……でしたか。それを、続けていればいずれ戻る可能性もあるかと。自分自身と向き合い、様々な料理を食べ、心を回復させる。それが最も確実な方法でしょう」
ウェスタさんは「推測ですが」と念を押すように付け加えて、曖昧に微笑んだ。
推測でも、ウェスタさんの言う通りなら、私も少しだけ心が晴れる。本当は、風邪のお薬みたいに即効薬があればいいけれど。
ウェスタさんはもう一度カップに口をつけると、寂し気な目で外を眺めた。
雨はまだやまない。
「わたくしにも、彼をそうさせてしまった責任の一端があります。彼を次の料理長に、と推薦したのはわたくしですし、彼なら出来ると信じてあまり深くは考えていなかった」
ポツリとこぼれた言葉は本心から出たものだろう。言い終えて唇を噛みしめるウェスタさんの姿は痛々しい。
「本来ならば、引継ぎは一年をかけて行われるのです。ですが、急な話で、彼にも、彼の周囲の料理人にも、そのような猶予はなかった。わたくしも、皆はもう子供じゃないのだから、と送り出してくれる彼らに甘えておりました」
きっと、ウェスタさんはみんなから慕われていたのだろう。そんな彼が家の事情でやむなく屋敷を去る。その瞬間は、快く送り出そうと思うはずだ。
「ですから、まさかこのような事態になるとは思ってもみませんでした。当時のアンブロシアくんの立場や性格を鑑みれば、想定くらいは出来たのかもしれないのに……」
「でも! それは別にウェスタさんのせいじゃ……」
ウェスタさんだってお父さまが亡くなられて辞めることになったのだから。自分だって辛かっただろうし、そうでなくても葬儀や帰国の準備がある。バタバタしていただろう。引き継いだ後の面倒まで見る余裕なんてないはずだ。
「フランさまはお優しいですね。確かにフランさまのおっしゃる通りです。誰が悪い、なんて話ではない。ですが、今からでも出来ることがあるのなら、わたくしは医者としても、元上司としても最善を尽くします」
ウェスタさんの口調は自らに言い聞かせるようなものだった。
彼の誠実な姿勢を見ていると、ネクターさんが前料理長を尊敬していると言った意味が身に染みて分かる。
何事にも真摯なウェスタさんは、ネクターさんにとって憧れだったに違いない。
「とにかく、今はアンブロシアくんの風邪を治療することが最優先です。その後、落ち着いて診療を」
「はい! よろしくお願いします!」
ネクターさんにとって、一番良い選択が出来るように。
私も、ウェスタさんのように最善を尽くそう。
一緒に旅を続けることの意味が、私だけでなく、ネクターさんにもあれば良い。私がネクターさんにたくさん助けられているように、私も、彼の助けになりたい。
*
ホテルへ戻り、ウェスタさんオススメのホテルバイキングを楽しんだ夜。
私の部屋の電話が鳴った。
「もしもし?」
「……お嬢さま?」
「ネクターさん⁉」
こほこほとせき込む声が聞こえ、私はたまらず部屋を飛び出す。
『元気になってもしばらくは寝ていてください!』と書置きをしたからか、律儀にそれを守ってベッドから電話をかけてきたようだ。
ウェスタさんにうつっちゃいけないから、と言われたけれど、やっぱり気になる。
隣の部屋のベルを鳴らせば、しばらくしてから薄く扉が開かれる。
「……お嬢さま」
「ネクターさん! 具合はいかがですか⁉」
「おかげさまで、なんとか。ですが、少し休暇を……いただきたく……。申し訳ありません……本当に、なんて不甲斐ない……」
開かれた扉の隙間から、ネクターさんがヘロヘロと土下座しそうになっているのが見えて「やめてください!」と思わず声を上げてしまう。
「私のことは大丈夫ですから! 今は自分のことを大切にしてください」
「本当に、申し訳ありません」
「謝罪は聞きません!」
「ですが……」
「ですが、も、でも、も禁止です!」
いつものやり取りに、ネクターさんが困ったように眉を下げた。ネクターさんの気持ちも分かるけれど、ネクターさんの今の仕事は早く元気になることだ。
「とにかく、ネクターさんはしっかり休んでください。早くベッドに戻って、明日には元気な顔を見せてください。それが主人命令です!」
「それは、早く元気にならなくてはいけませんね」
半ば強引に無茶な命令をすれば、ネクターさんはフッと笑う。
それじゃあ、と帰ろうとすれば、
「そういえば」
ネクターさんが何かを思い出したように口を開いた。
「夢で、前料理長にお会いしたような気がするんです。お嬢さまと、お話していたからでしょうか……。あれは、元気が出ました」
ぼんやりと夢心地でネクターさんは呟く。
「きっと、明日また会えますよ。ネクターさんを元気づけるために」
私の言葉をネクターさんは冗談と思ったのか
「……お嬢さまにはかないませんが……もしも、本当に会えたなら、料理長にもかないませんね」
と笑って見せた。
再会の時は、すぐそこだ。