213.お医者さまが言うことには
「風邪でしょう。ここ数日の疲れも出たのだと思います。二、三日安静にしていれば回復するかと」
ウェスタさんの診療に、私はホッと息を吐いた。
ウェスタさんが持ってきた注射が効いたのか、ネクターさんも今はすっかり安眠している。
ズパルメンティの魔法研究と科学の発達による新薬は即効性があるみたいだ。
「心配かもしれませんが、うつるといけませんから。フランさまは出来るだけ接触を控えてください。しばらくの間、朝と夜の二回、わたくしが診察に伺います」
「でも、ウェスタさんも忙しいんじゃ……」
「わたくしの診療所は紹介制でしてね、患者の数も限られます。そもそも、わたくしももう良い年ですから。気楽なものですよ」
「それじゃあ、お言葉に甘えて……」
「テオブロマ家には大変お世話になりましたから。それに、アンブロシアくんにも」
ウェスタさんはネクターさんの方へともう一度視線を移し、小さく息を吐く。
何やら思うところがあるのか、その表情は少しだけかたい。
「……場所を変えましょう。フランさま、少々お時間をいただいてもよろしいですか?」
「もちろんです! 一人で観光する予定もないですし」
「ありがとうございます。では、近くのカフェにでもご案内いたしましょう。車を回してきますから、ロビーでお待ちください」
カバンと傘を持ち上げて、ウェスタさんは紳士らしく礼をすると、ネクターさんの部屋を後にした。
私もネクターさんが目を覚ました時のために書置きを残して部屋を出る。
ひとまず、ネクターさんが回復すると分かって一安心だ。
ロビーについたころには、ウェスタさんがすでに車を停めてくださっていた。
エスコートされるまま助手席に座れば、ウェスタさんの車が静かに動き出す。
「ネクターさんのこと、ありがとうございました。倒れた時はどうしようかと……」
「ただの風邪で良かったです。もしも病状が急に変化するようでしたら、真夜中でもご連絡を。すぐに駆け付けます」
ウェスタさんはふっと口角を持ち上げた。
整えられた白髪は品があり、メガネの奥に見えるまなざしは優しい。
ネクターさんが年を取ったらこんな感じかも、そう思えるような人だ。
「それにしても、まさかズパルメンティでフランさまとアンブロシアくんに会うことになるとは思いませんでした」
「私もです! ちょうど、前料理長ともお会いしたいとお話していたところだったんですよ」
もちろん、前料理長に関する手がかりなんてなかったから、本当に夢みたいな話だと思っていたけれど。
お母さまたちに聞いていたら教えてくれたかもしれないけど、それでも、会えるとは限らなかった。
「お医者さまになってるなんて思いませんでした。全くの畑違いなのに」
「元々、わたくしは医者だったんですよ」
「え⁉」
「医者の家系に生まれましてね。両親からのすすめもあって医者になったんですが、患者さまと向き合っていくうちに、色々と考えるようになりまして」
ウェスタさんは懐かしそうに目を細める。
前料理長がこんな異色の経歴を持っているとは思わなかった。
「フランさまは、薬食同源という言葉をご存じですか?」
「薬食同源?」
「紅楼国の教えです。日ごろから食に気を付けることが、健康を保つ秘訣……つまり、薬と食は同じだという考え方なのです」
「薬膳料理みたいなことですか?」
「おっしゃる通りでございます。医者をやっていたある日、その言葉を紅楼国の方に教えていただきましてね。それから、料理に興味を持ち、医者から料理人に。色々とご縁があって、テオブロマ家で雇っていただくことになったんです」
「そんなことが⁉ それじゃあ、料理長を辞めてお医者さんに戻ったのはどうしてなんですか?」
「父が亡くなりましてね。父の患者さまのこともありますから、家業を継がねばならなかったのです」
私が「ごめんなさい」と謝れば、ウェスタさんは首を横に振った。
「さ、つきました」
ウェスタさんは空気を切り替えるように声のトーンを上げ、カフェの駐車場に車を停める。
乗車時と同じようにエスコートされて車を下りれば、目の前はガラス張りのおしゃれなカフェ。
外からでも見えるケーキスタンドには色とりどりのケーキが並んでいる。
ウェスタさんが扉を押し開けると、チリンと綺麗な鈴の音がした。
「いらっしゃいませ。……あら、フォロ先生」
「こんにちは。奥の席は空いていますか?」
「えぇ。どうぞ」
行きつけのカフェらしい。ウェスタさんは店員さんに断りを入れると、慣れた足取りで店内を歩いていく。
店の奥、隅のテーブル席につくと、店員さんがメニューを持ってきてくださった。
「お好きなものをどうぞ。ごちそうしましょう」
「良いんですか⁉」
「えぇ。せっかくの機会ですから」
どうしよう、と迷っていると
「飲み物はホットレモネード、ケーキはアップルパイがおすすめですよ」
とウェスタさんがさりげなく教えてくれる。
さすがは前料理長。私の好みまでばっちり把握しているらしい。
「最高です! それにします!」
「かしこまりました」
ウェスタさんは注文を済ませると、私の方に向き直った。
彼が何を聞きたいのか、なんとなくは察しているつもりだ。私が「それで」と促せば、ウェスタさんも曖昧に笑みを浮かべる。
「……何から、お聞きすればよろしいのか……」
そう切り出して、困ったように眉を下げた。
ウェスタさんは少し考える素振りを見せ、やがて、ゆっくりと口を開く。
「どうして、フランさまはアンブロシアくんとお二人でここへ……。それに、わたくしの診療所へ来る予定だった、と。その理由をお窺いしても?」
「もちろんです」
私が今までの経緯をかいつまみながらも全て話すと、ウェスタさんは驚きと困惑、少しの悔しさを顔に滲ませた。
「……そう、ですか。アンブロシアくんが、味覚を」
小さく呟かれた声色に雨の匂いがした。
数瞬の沈黙。
その後、ウェスタさんは何か覚悟を決めたように私をじっと見つめる。
「フランさま。大変申し訳ありません。おそらくですが……アンブロシアくんの味覚を完全に戻す薬は存在しないかと」
医者としても、前料理長としても、嘘はつけなかったのだろう。
それでも、ウェスタさんの表情はくしゃくしゃと歪んでいた。