212.誰も予期せぬ再会で
雨の中、私は走る。
風にさらされてレインコートのフードが脱げる。だが、髪が濡れようが、服が濡れようが今はそれどころではない。
カバンの中にしまいこんだ紹介状さえ濡れなければそれでいい。
魔法のメガネさまがポォンと軽い音を立てた。
『目的地に到着しました』
「クリニックは何号室ですか⁉」
『三〇五号室です』
私はアパートの鉄門をやや乱暴に押し開ける。出来る限りの速度で階段をかけあがれば、三〇五号室の扉の前に目指していたクリニックの文字が浮かび上がっていた。
「すみません!」
ベルを鳴らす。
お願いです、お医者さま! 早く出て!
私が祈るような気持ちでアパートの扉を見つめていると、内側から、カチャンと鍵の開いた音がした。
「どうされまし……」
「私の知人が風邪で倒れて!」
扉の内側から顔をのぞかせた穏やかそうなおじさまに必死で訴える。白衣を着たおじさまは私を見るなり驚いたように目を丸めた。
「……お嬢さま、では、ありませんか」
「たしかに私はお嬢さまです! お嬢さまですけど! 今はそれどころじゃなくて!」
「落ち着いてください。フランさま」
優しく両手を掴まれ、私は「え」と顔を上げる。
確かに今、名前を呼ばれた。まだ、名乗ってなどいないのに。
「わたくしです……と言っても、フランさまとは数度しか顔を合わせたことがありませんでしたから、覚えていらっしゃらないかもしれませんが。テオブロマ家前料理長、ウェスタ・フォロにございます」
おじさまは温和な笑みを浮かべて、恭しく一礼した。
緊急事態だというのに、その穏やかな空気感に私の焦燥感は緩やかに下降していく。
……っていうか。
「前料理長⁉」
「えぇ。本来ならば、この運命的な出会いを喜ぶべきなのでしょうが……今は、それどころではないのでしょう」
一拍遅れてやってきた驚きも、前料理長――ウェスタさんによって現実へと引き戻される。
「下に車を停めてありますから、すぐに向かいましょう。話は道中にでも」
ウェスタさんは広いお部屋の奥へとかけていくと、すぐさまカバンやら傘を持って玄関先へと戻って来る。
「場所は?」
「ここからすぐのリーバデルアクアってホテルです!」
ウェスタさんが扉を閉めると、扉には『外出中』の文字が浮き上がった。
階段を駆け下りてウェスタさんの車に乗り込む。
彼がエンジンをかけると、車内にはズパルメンティの歌手だろうか、聞きなれぬ穏やかな歌声が響いた。
「聞きたいことは山のようにありますが……、フランさま、まずは、患者さまの症状をお教えいただけませんか」
落ち着いた声とゆったりとした喋りが心を落ち着かせてくれる。
「えっと……その、昨日、ホテルに到着した時はまだ元気だったんです。ただ、夜には少し体調が悪いと言っていました。それから、今朝になって、姿が見えなかったから部屋に行ったんです。だけど、何度ノックしても返事がなくて……」
ホテルの人に鍵を開けてもらったところ、ネクターさんが部屋の中でぐったりと倒れていた。
おでこに手を当てたらびっくりするくらい熱くて「すぐにお医者さまを」という話になったのだ。
「以前に紹介状をいただいていたので、そもそも今日はウェスタさんのクリニックにお伺いするつもりだったんです」
だから、私は一目散に駆け込んだ――
まさか、こんなところで、こんな風に前料理長と再会するなんて思ってもみなかったけれど。
「そうでしたか。先日、知人から紹介状を、と手紙をいただきましたので、そろそろ患者さまがお越しになられる頃だろうとは思っていたのです。まさか、フランさまのお知り合いの方とは思いませんでしたが」
だが、ウェスタさんはそれ以上追及することなく、ホテルの前で車を停める。
私が降車すると、ウェスタさんが傘を開いて私の方へと差し出した。カバンを片手に、そのままホテルへと歩き出す。
「最近、その方は何か変わったものを食べたりしませんでしたか? もしくは、何か体に負担がかかるようなことをしたとか」
「変わったもの……あ! この間、クラーケンを! でも、体に負担がかかるようなことは何も……。ずっと、雨続きだったので、もしかしたらそれで体が冷えたのかも」
「クラーケンの人体への影響は、ズパルメンティでも特に事例がありません。おそらくは雨の影響でしょう。知人の方の部屋番号は?」
「あ、それならロビーで鍵をもらってきます!」
ウェスタさんはこの辺りじゃちょっとした有名人らしい。フィーロさんが腕の良い医者だと紹介してくれたくらいだから、当たり前かもしれないけれど。
受付で事情を話す前に、フロントの人がウェスタさんに気付いてすぐさま案内してくださった。
ウェスタさんと一緒にネクターさんの部屋へと向かう。
ホテルの人に再び鍵を開けてもらうと、ネクターさんはベッドで眠っていた。
私がウェスタさんのところへ向かっている間に、ホテルの方がベッドまで運んで応急処置をしてくださったらしい。
こんもりと盛り上がったお布団の中から、ネクターさんのものと思われる荒い息遣いが聞こえる。
「失礼します」
傘とカバンを下ろしたウェスタさんがベッドへと近づいて、布団をそっと持ち上げる。
「……なっ⁉」
ウェスタさんから、本日二度目となる驚愕の声が漏れた。
私の姿を見た時も驚いてはいたけれど、あの時は緊急事態だったから。だけど。
「アンブロシアくん……⁉」
ウェスタさんは目を見開いて口元を覆う。
さすがにこれは、緊急事態を超える状況らしい。
そういえば私、ウェスタさんに患者さんがネクターさんだって伝えてなかったかも。
ウェスタさんは複雑そうな表情で、苦しむネクターさんを見つめ続ける。
彼からすれば、愛弟子……というか、自分の後を継いだはずの料理長がズパルメンティで、屋敷のお嬢さまと一緒に旅をしているのだ。
状況が整理できなくても無理はない。
「……フォロ、料理、長……?」
対照的に、ネクターさんのかすれた声には驚きなどなく。まるで、幻覚か夢でも見ているのだと言った具合で、懐かしささえ感じるものだ。
「フォロ先生、すみませんが患者さまをよろしくお願いします」
ホテルの人からの声かけで我に返ったウェスタさんが慌てて診療を始めたのは、それから約数十秒が経過してからのことだった。




