193.その恐怖、海に沈めて
「スメラさん‼ 来てる‼ 後ろに来てます‼」
全身いっぱいに力を込めて叫ぶと、スメラさんが「え?」ととぼけた様子でこちらを振り返る。
「あぁ、それなら……」
大丈夫よ――
スメラさんの美しい笑みと共に、水上機を掴まんと伸ばされていた触手が視界から消えた。代わりに、鮮やかな濃紺が空に浮かび上がる。
「フィーロさん⁉」
彼女は空を蹴り、水上を駆け、風に乗るようにふわりと高く飛び上がった。
まるで彗星。宙を切り裂くフィーロさんの右足がクラーケンの頭上を貫く!
一瞬の静寂――
後に、まばゆい閃光と視界を覆う壁となった波が私たちを襲う。
水上機の窓が青一色に包まれる。
「お嬢さま!」
ネクターさんの声が聞こえ、そのまま私の体はガシリと抱き止められた。
大きく揺れる機体に、もはや方向も分からない。
豪風と荒波が足元から入り込んできて、自らの体がびしょ濡れになったことだけが分かる。
数秒か、数十秒か、数分か。
自らの心臓が動いているかどうかさえ確認できないまま、私はネクターさんの鼓動の音だけを耳元で聞いていた。
「ぷはぁっ……ごめんねぇ! 最後、ちょっと避けきれなかったわ! 大丈夫だった?」
「……お嬢さま! お嬢さま⁉」
スメラさんとネクターさんの声が聞こえる。
けれど、うまく言葉が出ない。
ぼんやりとにじむ視界は、水上機に振り回されて焦点が定まってないからだろうか。それとも、水上機に入り込んだ波で顔が濡れているから?
「……お嬢さま! お嬢さま、しっかりしてください! 大丈夫ですか⁉」
私を守ってくださったであろうネクターさんもずぶ濡れで、綺麗なブロンドヘアから滴る水滴が私の頬にパタリと落ちる。
なんだか、それらの感覚全てがまるで自分のものではないみたいで。どこか遠くの、夢の出来事のように感じられた。
実感がわかない。
クラーケンが現れて、水上機に乗って、魔法を使って……フィーロさんが、クラーケンを倒して……?
「え、と……おわった、ん、ですよね」
グルグルと回る思考からこぼれた言葉と同時、目から自然と涙がこぼれた。
怖かった……。
ドラゴンを狩った時よりも、ユニコーンに会いに行った時よりも。もっと、怖かった。
フィーロさんを信頼していたし、安全だって保証されていたと思う。でも。
巨大な海の魔物も、それを倒すほどの威力を持った武器を自分が扱ったという事実も。
何もかもが規格外で、憧れていた魔法の力は想像していたよりも血なまぐさくて。
「ネクター、さん……」
私を支えてくれていたネクターさんの体にすがりつくと、彼は「お嬢さま⁉」と慌てたように私の体を支えなおす。
「こわかったですぅぅぅ……! 死んじゃうかと、思ってぇ……!」
ボロボロとこぼれる涙が止められなくて、ただひたすらネクターさんへしがみつく。
「……ご立派でしたよ。お嬢さまが、ズパルメンティを守ったんです」
ネクターさんの穏やかな声と背中を撫でる手が、生きていると感じさせてくれる。
「二人とも、無茶をさせちゃったわね」
スメラさんは今までにないくらい丁寧な運転で水上機を海面へと着水させた。屋根が開かれて、肌にひやりと海風を感じる。
「終わったぞ……って、なんだこれは」
水上機に戻ってきたフィーロさんの呆れた声が聞こえた。
少しずつ、いろんな感覚が正常に戻ってきて、私はようやく自らの呼吸を整える。
ネクターさんにすがっていた腕をほどくと、ネクターさんもそっと私の背から腕をほどいた。
けれど、ネクターさんはその手を完全に離すことはせず、私の頬へと動かす。
「お怪我はありませんか?」
目元の涙を優しく拭われて、とろけるような琥珀色の瞳に捕まる。
「ネクターさんが、守ってくださったから……」
自分だってずぶ濡れなのに。ネクターさんは自分のことなど棚に上げて、私だけを見つめていた。
「従者たるもの、主人を守るのは当たり前です」
「だけど、泳ぐのも苦手で、今だって……」
海に着水した水上機の足元は開いたままで、ネクターさんの足も、私の足も、海の中にしっかり浸かってしまっている。
ネクターさんは、地に足がついていないと落ち着かない、そう言っていたのに。
「お嬢さまのためならば、いくらでも泳ぎますよ」
シェルターの中でも聞いた謎理論。今は、こんなにも頼もしい。
私が思わず笑みをこぼすと、ネクターさんもようやく安心したように笑う。
「ですが、今後、このような無茶は二度とごめんですね」
ネクターさんが大きく吐き出した本音に、私も強くうなずいた。
んんっ、と咳払いが聞こえて私たちはハッと顔を上げる。
フィーロさんがとどめを刺したとはいえ、すぐそこにクラーケンがいることに変わりはない。
「……すまないが、水上機を動かしてもいいか?」
フィーロさんの苦笑いに、「あら、せっかく良い雰囲気だったのに」とスメラさんが笑う。
「ご、ごめんなさい! その!」
「いや、スメラが無茶をさせたらしい。悪かったな」
「やだ! 私のせいなの⁉ 最後、派手にやったのはフィーロ、あなたでしょう?」
「スメラと違って、久しぶりに魔力を使ったんだから仕方ない。だいたい、スメラなら想定できたはず」
「もう! 分かったわよ! 悪かったわね!」
フィーロさんとスメラさんの子供みたいなやり取りに、私とネクターさんの気持ちも少し晴れやかになる。
本当に、クラーケンを倒したんだ、と。
「船と本土の人間がクラーケンの回収はしてくれるだろう。このまま先に港へ戻って、手続きをしようか」
フィーロさんは助手席に乗り込むと、シートベルトをしめて私たちの方へと振り返る。
「本当にありがとう。ズパルメンティの危機を救ってくれて」
いつもとは違うやわらかな笑みは、まさに世界を守る魔法使いのそれで。
海と空に混ざった濃紺の髪が、水上機の上昇に合わせてふわりと美しく揺れた。
スメラさんも港へと向かって水上機を操縦しながら、気持ちよさそうに栗色の髪をなびかせる。
私たちと一緒にずぶ濡れになっていたせいか、スメラさんの髪はキラキラと水滴を反射させた。
「本当に二人とも最高だったわ! 特にあの氷漬け! フィーロも見たでしょう?」
「危うくこっちまで凍らされるところだった」
「そうなったら、研究室に飾ってあげるから安心してちょうだい」
「それだけはゴメンだ」
二人の楽し気な会話は、私たちのもとに平穏が戻ってきたことを教えてくれていた。




