191.空駆け抜ける水上機
「フィーロ!」
女性の声だった。波音にもかき消されない、閃光のようにまっすぐな声。
同時に、水上機が滑るように船の横へと着水する。
水上機の屋根に当たる部分が開く。顔をのぞかせたのはこれまた綺麗な女性だった。
とても戦闘には無縁そうな、優しそうなたれ目。綺麗な翡翠色の瞳が特徴的だ。
「あら、他にも乗客がいるのね」
「人手は多い方がいい。それに、上客だ」
フィーロさんと女性は軽く言葉を交わしながらも、ロープを海から船へ、船から海へとやり取りする。
「二人とも、このロープを使って水上機へ降りてちょうだい!」
気付いたときには船からしっかりとロープが垂れ下がっており、私たちを女性が手招きしていた。
「先に下りるから、よく見てて。慌てずにゆっくり下りてくればいい」
いうや否や、フィーロさんが軽やかにロープを伝って水上機へと足をつける。
彼女は慣れた足取りで運転席に立つ女性の隣に並ぶと、私たちの方へと手を振った。
私とネクターさんも恐る恐るフィーロさんに続いて下りる。
いくつか途中に作られたロープの結び目に足をかけながら、一歩ずつ、確実に。海が荒れていなければもっと楽に下りれたのだろうが、大荒れの海ではロープ自体が揺れて怖い。
私とネクターさんが水上機に足をつけるころには、すでに緊張でくたくただった。
少なくとも、船からこんな方法で脱出したことは一度もないし、水上機に乗るのも初めてだ。
次があるなら遠慮したい。もちろん、次がないことが一番だけど!
水上機は四人掛けで、ついた足元にはすぐ座席があった。
「そのまま座ってちょうだい。あ、シートベルトはしてね。少し酔うかもしれないけど、掃除が面倒だから吐かないで。我慢してね」
座席に座るよう促され、私はシートベルトをしっかりとしめる。
全員が席につくと、水上機の屋根が閉じられる。
運転席に座っている女性がこちらを振り返って、やわらかな笑みを浮かべた。
「足元に麻袋があるでしょう? 届くかしら?」
「はい! あ、えっと……」
「スメラよ。はじめまして、フランちゃん。さ、袋をしっかり握っててちょうだいね。離陸するわよ」
スメラさんは再びやわらかくこちらへ笑いかけたかと思うと、次の瞬間、ゆっくりと機体が持ち上がる。
「おわぁっ⁉」
突然の浮遊感にすっとんきょうな声が出た。
フィーロさんは慣れているのかクールな表情で、目の前に浮かんでいる巨大なシルエットを見つめるばかり。
戦闘前に集中力を高めているのかもしれない。
フィーロさんはもちろん、運転しているスメラさんの邪魔をするわけにもいかない。
隣で黙り込んでいるネクターさんへと視線をやれば、そのイケメンな顔が残念に見えるほど、彼の顔面は真顔だった。
「……ね、ネクターさん、大丈夫ですか?」
私がそっと小声で話しかけると、ネクターさんはようやく我に返ったらしい。
「だ、大丈夫です……。その、まさか、こんなことになるとは……。あぁ、旦那さまたちに後でなんとお詫びすればよいか!」
どうやら、まったく状況が把握できていないらしい。
すっかりパニック、もとい、いつものネガティブを発揮している。
とはいえ、しっかりと胸元に麻袋を抱いているあたり、この戦闘に参加する気はあるようだ。
「ととと、とにかく! お嬢さまのことは、僕が絶対にお守りいたしますから!」
「ありがとうございます……」
ネクターさんの方が正直心配だけど。
私がおずおずと頭を下げれば、ネクターさんはガチガチに緊張したままで、視線をクラーケンへと向けた。
「あれが、クラーケン……」
ネクターさんは食べたことがあるのだろうか。
フィーロさんに取引を持ち掛けられて心が揺らいでいたくらいだし、相当おいしいに違いない。
「二人とも、機体を傾けるから気を付けてね」
クラーケンに意識を向けていると前方から声がかかる。気を付けるより先に、ぐん、と大きく視界が傾いた。
「ほわぁっ⁉」
「お嬢さま⁉」
シートベルトをこれでもかとしっかりしめているのに、それでも体が重力に負けてずるずると機体の傾きに引きずられてしまう。
「大丈夫ですか?」
「な、なんとか……!」
ネクターさんが必死に支えてくださっているおかげでギリギリ座席にお尻がついている。
クラーケンへと真っ直ぐに向かっていく機体は、さすがに空を飛んでいるだけのことはある。
速度を落とす障害物はなく、どんどんとクラーケンの姿が大きくなっていく。
「もう始まってるな」
フィーロさんの声に、私たちは目を凝らした。
よく見ると、クラーケンの周りに水しぶきが上がる。明らかに人口的なものだ。
大砲を何発も陸地から打ち込んでいるのだろう。
時折、ドォンッ! と大きな音が聞こえ、クラーケンの叫び声とも、鳴き声ともつかぬ甲高い音がこだました。
「そろそろ降ろした方がいいかしら?」
「任せる。出来れば、あいつのド頭の上に」
「了解」
スメラさんとフィーロさんの会話の意味が分かったのは、水上機がクラーケンの真上へと突っ込んだ瞬間だった。
突如、水上機の足元が開く。私たちの足が宙に浮く。船体を持ち上げるように風が吹き込む。今度は体が飛んでいってしまいそう!
「ひょぁぁぁあああ⁉」
「おわぁぁあああ⁉」
私とネクターさんが叫んだと同時――
「行ってくる」
フィーロさんがそのまま座席から姿を消した。
「えっ⁉」
どうやら、開いた足元から真下にいるクラーケンへ向かって落下したらしい。
彼女の濃紺の髪がどんどんと海に混ざって溶けていく。
落ちていくフィーロさんの姿が見えたのはほんの数秒のことで。それ以上は、彼女の姿も見えなくなった。
海へと消えていったフィーロさんの姿に、私はパクパクと口を開ける。
あの高さから飛び降りて、通常の人なら無事ではいられないはず。いくら下が海でも、その衝撃はすさまじいものだろう。
なんとか無事でいて。そう願う他には何も出来ず、私とネクターさんは自らの身を守るため、必死に振り落とされないようシートベルトを握りしめる。
水上機の足元が閉じたのはそれから数秒後のこと。
人生で最も長い数秒間に、私とネクターさんがスンと真顔になったのは言うまでもない。
「さ、二人も仕事を……って、二人とも? 大丈夫?」
まるで何事もなかったかのように私たちを振り返ったスメラさんは、後部座席でゾンビのように「うぁぁ」と声を漏らす私たちの姿にクスクスと笑い声を上げた。