190.その取引、成立です!
フィーロさんがシェルターへと戻ってきたのは数十分が経ってからのこと。
「お待たせ」
船内をくまなく捜索していただろうに汗一つかかず涼し気な表情を見せるあたり、フィーロさんの底力を感じる。
「大丈夫だった? 変わったことは?」
「大丈夫です! 船員さんも優しいし、みんな落ち着いてますし……」
「ズパルメンティへ来る人は大抵船旅に慣れてる人が多いから。それに、このあたりじゃクラーケン災害はある程度予想される」
フィーロさんは私の隣に腰かけると、船員さんから受け取った飲み物に口をつける。
さっぱりとしたライム味の炭酸飲料は、ズパルメンティじゃ最もポピュラーなサイダーの一種らしい。フィーロさんは故郷の味にひとときの安堵を見せた。
「フィーロさんの方は大丈夫だったんですか?」
「あぁ、問題ない。だけど、すぐにまた出ることになる」
「え?」
「本土がクラーケンと戦闘することを決めたらしい」
船員たちから話を聞いた。フィーロさんはそう手短に話したけれど、どうしてフィーロさんがここから出ることにつながるのだろう。
まさかとは思うけれど……。
「フィーロさんもクラーケンと戦うつもりですか⁉」
「当たり前だ」
「ちょっと待ってください! それは! いくらなんでもやりすぎです‼」
まるで命の危機など微塵も感じていないかのようにあっけらかんと言い放つフィーロさんに、思わず声が大きくなってしまう。
フィーロさんがドラゴンハンターで、ユニコーンも狩れて、強くて頼もしい女性だってことは百も承知だけど! でも!
「クラーケンですよ⁉」
「知ってる。だからこそ、いかなくちゃ」
フィーロさんは譲るつもりがないようだ。きっぱりと言い切って、私の頭をさらりと軽く撫でる。
「そうだ、フランも来る?」
「……ほぁ?」
「フィーロさん!」
彼女のお誘いを断るように、私とフィーロさんの間に飛び込むように割って入ったのはネクターさんだった。
「お嬢さまを危険な目に合わせるようでしたら、フィーロさんといえど、僕が容赦しませんよ」
「守れる自信があるから言ってるだけ。それに、貴重なチャンスだ」
「貴重? 命を危険にさらすことがですか?」
「クラーケンは美味だとネクターなら知っているはず。討伐に加われば、クラーケンを無償でゲットできる」
ネクターさんのブロンドの髪に視界が遮られて、二人の表情は見えないけれど。
なんだかバチバチと嫌な空気が漂っている。おそらく、二人とも本気なだけに余計。
っていうか、フィーロさん、クラーケンもドラゴンみたいに狩って食べようとしてませんか⁉ いや、おいしいとは聞きましたけど!
「くっ……たしかに、それは、魅力的ですが……!」
ネクターさんまで⁉ なんか揺らいじゃってません⁉
私たちの旅は、確かにお料理中心でしたよ! でしたけど! 命は大事に! 二人とも、全力で生きてください⁉
「悪くない提案だと思うけど。もちろん、二人に戦えとは言わない。なんなら、この船だってクラーケンからは大した距離じゃない。最悪ここにいてもシェルターで荒れ狂う海を渡る必要がある」
「で、ですが! やはりお嬢さまを危険な目に合わせるわけには……!」
ネクターさんがなんとかクラーケンの誘惑から戻ってくると、フィーロさんが畳みかけるように次の言葉をつむぐ。
「この船の上空に、もうすぐ一機の水上機がつく。仲間のね。二人はそれに乗って、上空から指示に従ってくれるだけでいい。仕事はシンプル。クラーケンに向かって、上空からいくつかの瓶を投げるだけ」
「……な、なんですか。その、変な取引は……」
フィーロさんの提案に、さすがのネクターさんもやや引き気味だ。
気持ちは分かる。私だって、今の状況はよく理解できていないんだもん。
クラーケンが出没して、ズパルメンティ本土がクラーケンと戦闘することを決めて。クラーケンの近くにいるこの船もその騒動に巻き込まれてて、フィーロさんには水上機のお迎えが……?
えっと、つまり?
パニックになりそうなほど速い展開をなんとか整理しようと頭をフル回転させていると、ビーッとけたたましい音が鳴り響いた。
「戦闘準備開始だ」
フィーロさんが短く告げる。
どうしたものか。
私の方へと振り返ったネクターさんとようやく視線がぶつかって、私たちは自然と目で会話する。
行くべきか、行かざるべきか。
「命なんか賭けなくていい。ズパルメンティの人間を信頼してくれれば、それだけで。うまい店は紹介できないが、目の前に転がっているうまい食材なら案内してやれる」
フィーロさんはクイと顎を脱出用シェルターの入り口へと動かした。
「商売人なら、どちらを取る? ノーリスク、ノーリターンだ」
私を射抜くような視線が、挑戦するような熱を宿す瞳が、私の体を突き動かした。
「……わかりました。本当に、水上機に乗って、安全な上空から瓶を投げるお仕事をすればいいんですね?」
「あぁ」
言ってて自分でもなんだかよく分からないお仕事だけど。
それでおいしいクラーケンが食べられるというのならば。
――この商売、取引成立といたします!
「いきましょう!」
私がネクターさんの手を引くと、彼が驚いたように目を丸くした。
「本気ですか⁉」
「ネクターさんに少しでもおいしいものを食べさせてあげられるチャンスがあるなら、私は乗ります! このビッグウェーブに!」
「……お嬢さま、何か間違っている気がします⁉」
ネクターさんは私に引っ張られるまま、体を持ち上げる。
従者としては、おそらくこの無謀な主人を止められない場合、ついていくしかないのだろう。
ネクターさんには申し訳ないけど、まあ、これも一つの社会経験です!
「絶対においしいクラーケンを食べましょう!」
「なんだか趣旨が変わってませんか⁉」
「いいぞ、フラン。そのいきだ」
バタバタと慌ただしく船内を行きかう船員さんたちの間を縫って、フィーロさんに続いて甲板へ出る。
大しけとなった海。激しく上がる波しぶき。空を覆う分厚い黒雲。
それらの向こうに、かすかながら大きな影が見えた。
「……クラーケン」
長く伸びた触手が天を掴むように揺らめく。
直後、バラバラと鳴り響く音が頭上から降って来る。
「来たぞ」
フィーロさんの声に顔を上げれば、小型の水上機が船の上でゆっくりと旋回していた。




