189.緊急、クラーケン発生⁉
突然の大きな揺れと船内に鳴り響く警報の音で否応なく目が覚めた。
ドンドン! 扉を鳴らす不躾な音が響いて、私は慌ててベッドから飛び降りる。
深く眠りにつけたからか、船酔いはかなりマシになっている。とはいえ、ぐらつく船の中を急いで駆けるほど万全ではない。
フラフラと右へ左へ蛇行しながらなんとか扉を開けると
「お嬢さま!」
ネクターさんの必死な形相が目に飛び込んできた。
「ネクターさん?」
「夜分遅くに申し訳ありません。緊急事態です」
「……緊急事態?」
「この先の海域でクラーケンが出没しました」
手短にネクターさんは状況を説明すると、私の腰に手を回して「失礼します」とそのまま私を持ち上げる。
「ひゃぁっ⁉」
いつもよりも高い視界。驚きに私が声をあげると「申し訳ありません」とネクターさんの声が耳元で聞こえた。
「詳細は後ほどご説明いたします。今は身の安全が第一です。船内に緊急脱出用シェルターがありますので、そこまでは我慢してください」
ネクターさんは私を抱えたまま船内を早足で移動していく。緊急脱出用シェルター、なる場所に向かっているのだろう。
見れば、周囲の人たちも足早にそちらへと向かっているようだ。
船員さんたちの避難誘導もあって今のところパニックにはなっていないようだが、張りつめた緊張感が船全体を覆っているような気がして、自然と体が強張る。
「ネクター!」
しばらく船内を移動していると、誘導員に混ざって聞きなれた声がした。
「フィーロさん!」
「フランも無事か。他に取り残された人がいないか様子を見てくる。二人はこの先のシェルターで待っていて」
フィーロさんは私たちを待っていてくれたらしい。
『緊急時避難室』と書かれたボードのぶらさがる角で、私たちにシェルターの方向を示したかと思えば、逆方向へと歩き出した。
人の波を避けてすいすいと逆走していく彼女の身のこなしは、さすがドラゴンハンターだ。
「気を付けて!」
ギリギリ聞こえるかどうか。自分に出せる精一杯の声でフィーロさんを見送ると、彼女はひらりと片手を上げ、人ごみに消えていった。
シェルターへ入って、ネクターさんが私を下ろす。
けれど、足をつけた地面がぐらりと大きく傾いて、私は再びネクターさんに支えられた。
「すごい揺れ……」
「豪雨は抜けたのですが、ズパルメンティの港付近にクラーケンが出没して海が荒れているようです。その余波がここまで届いているのでしょう」
ネクターさんに支えられながら、私はようやくシェルターに腰を下ろす。床には上等な絨毯が敷かれていて、一晩程度ならこのままでも眠れそうだ。用意周到と言うべきか、もしかしたら、ズパルメンティの海域では時折こういった事態が起きるのかもしれない。
「クラーケンが港近くにって、大丈夫なんですか?」
「船ももう港にかなり近づいていますから、このまま迂回するか……クラーケンと戦闘をするか、今、ズパルメンティ本土と連絡を取り合っている最中だそうですよ」
船員さんからブランケットと飲み物を受け取りながら、ネクターさんが状況を説明する。
私が眠っている間に、ネクターさんは島から戻ってきたフィーロさんから状況を聞いたんだそうだ。
時を同じくして、船員もレーダーがクラーケンを探知したことに気付き、すぐさま本土へと連絡したが……その数時間後にはこの被害なのだから、ズパルメンティ本土の方が混乱しているに違いない。
「ズパルメンティでは、この手のクラーケン災害は年に何度かあるそうです。ですから、対処には慣れている、とフィーロさんがおっしゃっておりました。このシェルターも、クラーケンに対抗できるほどの強度があると。ですが、お嬢さま。何かあったらすぐにお申し付けください」
ネクターさんは私を安心させるように、ブランケットの上から優しく私の背を撫でる。
その大きな手が頼もしい。
「ありがとうございます、おかげさまで何とか……。船酔いもマシになりましたし」
「それは良かった。後は無事を祈るだけですね」
「フィーロさんは大丈夫でしょうか……」
自らの身がひとまず安全であることがわかって、私は船内に戻ってしまったフィーロさんを思い出す。
彼女は凄腕のドラゴンハンターだが、相手がクラーケンとなれば話は別だ。
クラーケンは今乗っている旅客船に匹敵するほど大きな体を持つ海の魔物。遭遇すると船ごと沈められることも多く、戦闘ともなれば、普通の人では到底太刀打ちできない。
戦艦はもちろん、陸地や上空からの攻撃に加え、魔法使いの力も必要になると聞いた。
貿易業の人間としては、貨物を船で運ぶ以上はセイレーン同様に恐れるべき魔物であり――それ相応の覚悟と準備を持ってしなければ対峙できない相手だ。
「……まさか、こんなタイミングで遭遇するなんて」
私がきゅっと膝を抱えると、ネクターさんが再び私の背を撫でる。
「お嬢さまのことは、必ず僕がお守りします」
「でも、ネクターさん泳げないんじゃ……」
「お嬢さまのためであれば、どんな荒波であろうと泳ぎます」
どんな理屈だ。無茶苦茶すぎます、と私が苦笑すると、ネクターさんが少しほっとしたように微笑む。
「ようやく笑ってくださいましたね」
「……ごめんなさい、やっぱり、安全だって分かっててもこういう場面じゃ緊張しちゃいますね」
「謝るようなことではありませんよ。皆、誰しもこんな時は不安になります。正直、僕もこんなに緊張するなら死んでしまった方がマシかもしれないと思うくらいです」
それはさすがにネガティブすぎる。
相変わらずなネクターさんに、こっちが心配になってしまいそうだ。
そんな人が本当に私を守れるのかという問題も発生していますよ、ネクターさん。
「……でも、やっぱり、ネクターさんがいてくれてよかったです。頼りにしてます!」
私が素直に頭を下げれば、ネクターさんは優しく私の背を撫で続けてくださった。
「そうだ、お嬢さま。少し、気分が晴れやかになるお話をいたしましょう」
ネクターさんからそんな提案をされるとは思わず、私がパチパチとまばたきすれば、
「クラーケンは、大変美味な食材として有名なんですよ」
とネクターさんは笑みを浮かべた。




