188.現実と夢の狭間で
雨はやむどころか激しさを増し、大型の船とは言え揺れを感じるようになった。
ズパルメンティの港まで後二日ほどの航海だというのに、ここにきて私は船酔いに襲われてベッドから出ることが出来ない。
三つ目の島にはついたものの、船から下りる元気もなくて……。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です……。私のことは、おいていってください……」
まさに、私の屍を越えてゆけ、な状態だ。フィーロさんは苦い顔をして見せる。
「お嬢さまには僕がついておりますから。フィーロさんはお気遣いなく」
ネクターさんは船に残ってくださるらしい。
ベッドサイドに水の入ったグラスを置いて、島に下りるか悩んでいる様子のフィーロさんを促した。
観光というにはあまりにも雨が強すぎるけれど、ずっと船の中にいては気も滅入ってしまう。この船旅ももう八日を迎えていて、いくら様々な施設がついた船内と言えど、変わらぬ景色には退屈もする。
フィーロさんはしばらく悩んだ後「わかった」とベッド脇から立ち上がる。
「少し島の様子を見てくる。大雨が続いているし、島も水没被害が出てるかもしれないから」
どうやら彼女は、観光というよりも、島の被害を確認しにいくようだ。
紅楼で魔物を狩っているだけのことはあって、なんだか頼もしい。
「はい、お気をつけて……」
「フランもね。何かあったらすぐに呼んで」
フィーロさんと交換したアドレスは、ばっちり魔法のカードに登録済みだ。
「僕もここにおりますから。フィーロさんもお気をつけて」
「頼んだぞ、ネクター。行ってくる」
フィーロさんは、軽くネクターさんの肩をたたくと、そのまま部屋を後にした。
フィーロさんがいなくなった部屋に、二人。
ネクターさんと二人きりになるのは久しぶりで、その静寂が少しだけもどかしい。
もしかしたらベ・ゲタルでカレーを食べて以来かもしれない。
「……お嬢さま、本当に大丈夫ですか?」
「……な、なんとか。船酔いって、こんなに、辛いんですねぇ」
「僕が、お嬢さまの船酔いを全て肩代わりできると良いのですが。お役に立てず、申し訳ありません」
意味不明な理由で頭を下げるネクターさんにもデジャブを覚えるけれど。残念ながらそれを止めるすべもない。
それに……。
せっかく二人きりになれたのだ。
ネクターさんにはこれからのことを聞いておかないと。
「ネクターさん」
「なんでしょう、お嬢さま。僕に出来ることであればなんでもお申し付けください」
ひし、と手を握られて、熱い瞳で見つめられては私も言葉に詰まってしまう。
無自覚イケメンめ。くそぅ……人の弱みにつけこんで……。
酔いのおかげか、悲しいかな自我を保っている私は本題に戻ろうと握られた手をほどく。
聞かなきゃいけないわけじゃない。知らない方がいいかもしれない。
でも……。
「えぇっと……その……ネクターさんは、料理人に、戻りたいって思いますか?」
「どうして、また急に」
「急じゃ、ないです。ずっと、思ってたことだから……」
「……お嬢さま。以前も言いましたが、僕は、料理人に戻るかどうか、決められません」
「それは……! 立場の話ですよね? ネクターさんは、私たちテオブロマ家に勤めている料理長で、人事権は、お父さまにある。だから、そう言ってるんでしょう?」
一気に言葉を吐き出せば、一緒に吐き気がせりあがってきて、私は口元を押さえる。
ネクターさんが慌てて近くの袋を差し出し、私の背中を優しくさする。大きくてあたたかな手。
お料理を作るのが、世界で一番上手な手だ。
しばらくすると吐き気もおさまって、私は水を一口飲み込んだ。
深呼吸を何度か繰り返せば少し落ち着いて、私はゆっくりとネクターさんの方へ視線を戻す。
「大丈夫ですか?」
「はい……。ごめんなさい、その……。私、ネクターさんの、気持ちが知りたいんです。ネクターさんが、どう、思ってるのか……」
どうして、こんなにも不安になるのだろう。
きっと船酔いのせいだ。やっぱり、体調が悪い時に話すことじゃなかったかも。
ごめんなさい。もう一度謝れば、ネクターさんは再び私の背中を優しく撫でた。
「いえ、お嬢さまが謝ることではありませんよ。むしろ、僕がお嬢さまの質問をはぐらかしているのです。……僕は、失望することが怖いのです」
「失望?」
「えぇ。料理人に戻りたいと僕が口にしてしまったら、お嬢さまはきっと僕のために必死になってくださるでしょう。それでも、現実は全てうまくいくことの方が少ないんですよ。期待をすれば、その分だけ失望してしまう」
ネクターさんは小さく呟いて、そっと私の手を握る。
「僕はもう、何かを失うのはこりごりなんです」
その手がずいぶんと冷えていることに、彼は気づいていない。
「正直に言えば、料理人に戻りたいと思いますよ。少しですが味覚が戻って、料理への執着だらけです。もっと味を知りたい、以前のように料理をしたい。お嬢さまに喜んでもらいたいと、思ってばかりで」
「それなら、どうして……」
「以前と同じように料理人として生きる、ということは、僕の、最後の夢なんです。この夢を失ってしまったら、もう、これ以上何を理由に生きていけばよいか、分からなくなってしまいます」
ネクターさんは微笑んだ。切なくて、胸が締め付けられるような笑みだった。
「だから、ずっとお嬢さまと旅が出来たらいいのに、と思ってしまいます。屋敷に戻ったら、僕の夢は失われてしまうかもしれません」
絶対にかなわない夢なんてない。
私はずっとそう思ってきたけれど。
現実がそんなに甘くないことは、もう知っている。ネクターさんが味覚を失ってしまったように。そしていまだ、取り戻せていないように。
「でも、旅は、いつか終わっちゃいますよ」
「えぇ。ですからその時までは、僕はお嬢さまの従者です」
いつの間にか、ネクターさんに慰められるように撫でられていた頭。
私はその優しい温度に、少しの眠気を覚える。しばらく気分が悪くて十分に眠れていなかったからかもしれない。
「……お嬢さま、少しお眠りになってください。きっと、目が覚めたら良いお天気です」
ネクターさんのあたたかな声が聞こえる。
私はその声に誘われるように、そっと目を閉じた。




