187.雨音が連れてくるのは
宝石の島から船へと戻るころには、雨が降り始めていた。
紅楼からここまでは比較的好天に恵まれてきたから、久しぶりの雨だ。
「降ってきましたねぇ」
レストランの窓にたたきつける雨を見ながら呟けば、フィーロさんが「はい」とあたたかいスープを差し出してくださった。
船内レストランは、今日からズパルメンティの食事になる。
宝石の島で補充したお魚や貝を使ったお料理がメインで、スープも早速お魚の骨から出汁をとったものらしい。
「ありがとうございます!」
「こちらこそ」
私は席取り係で、フィーロさんとネクターさんが主にレストランのバイキングからお料理を取ってきてくださる係だ。
この役割分担は、今回の長い船旅で自然と定着した。
今日は海が見える窓際の席をとったけど、見えるのは雨雲と風に揺れる波間だけ。
大型の船だからあまり揺れは感じないけれど、それでもさすがに豪雨となればそうもいかないだろう。
「ズパルメンティは、雨が多いんでしたよね?」
「そうだね」
「それじゃあ、この雨も、ズパルメンティに近づいてきてる証拠なんですね」
「……そうだね」
そう答えたフィーロさんの声色が少しだけ曇っている気がして、私の目は反射的にフィーロさんの方へと動いた。
窓の外を見つめるフィーロさんの顔は険しい。
「どうかしたんですか?」
「いや、ちょっと。嫌な予感がするな、と思っただけ」
「嫌な予感?」
「気のせいかもしれないし、フランは気にしなくていい」
フィーロさんは取り繕うように視線を外すと、ちょうど戻ってきたネクターさんに軽く手を挙げた。
「ほら、お楽しみの料理だ」
ごまかすような、はぐらかすような。そんなフィーロさんの態度に、私は首をかしげる。
何も知らないネクターさんだけがのほほんといつも通り。彼は丁寧にお料理を盛り付けたお皿を並べて、私の隣に座る。
「やはり、ズパルメンティといえば魚料理ですね」
すっかりお料理のことに夢中なネクターさんに、私もフィーロさんの言ったことを伝えるのはやめよう、と決める。
フィーロさんも「ありがとう」とお礼を言ったかと思えば、早速ネクターさんが持ってきてくださったお料理に口をつけている。
慣れ親しんだ故郷の味だからか、いつもより少しペースがはやい。
「お嬢さま? 食べないのですか?」
「あ、食べます! すみません!」
フィーロさんのことが気になっていた私に、ネクターさんから声がかかる。
フィーロさんも気のせいだって言ってたし、あんまり気にしすぎるのもよくないかも。
今は、初めてのズパルメンティのお料理を楽しまなくちゃ!
食前の挨拶をすませて、私はスープに口をつける。
何種類かのお魚で煮込まれたブイヤベースだ。しっかりとお野菜やハーブも入っているのか、すごく風味豊かでおいしい!
「おいしい……! トマトが入ってて、すっごく上品な味! あったまりますねぇ……」
「ブイヤベースは何度かお屋敷でも出したことがありますが、さすがはズパルメンティですね。今の僕では詳しいことは分かりませんが……この香り、こだわりを感じます」
「こだわり?」
「えぇ。ブイヤベースとは、本来作り方が詳細に決められているスープなのです。スープの取り方も、小魚の種類が細かく決められていて……」
「聞いておいてなんだが……長くなりそうだな」
すっかり熱の入ってしまったネクターさんに、フィーロさんが肩をすくめる。
私が笑えば、ネクターさんは「すみません、つい」と恥ずかしそうに顔を伏せた。
「アクアパッツァも食べる?」
「はい!」
スープにパンを浸して食べていると、フィーロさんがお皿にお料理を取り分けてくださる。
こちらもトマトとハーブ、お魚に貝と具だくさんで色鮮やかだ。
「おいしそうです!」
ふわふわと立ち上る湯気からは食欲をそそるニンニクの香りが漂っている。
「アクアパッツァの解説もあるのか?」
「ありますが……長くなってしまいますので」
フィーロさんは案外人をからかうのが好きみたい。ネクターさんに挑戦するような笑みを投げかけ、困らせて、軽く微笑んだ。
三人で一斉にアクアパッツァを頬張る。
ふわっとやわらかな白身魚が口の中でほぐれ、オリーブの香りが口いっぱいに広がった。
「んん~~~~! おいしい! トマトの甘酸っぱさがお魚にも染みてて……! 貝の塩味がすごく全体を引き締めてますね!」
プリプリの貝からあふれる旨味が、一緒に煮込まれた香草の爽やかさともマッチする。
ニンニクはきつすぎなくて、優しい味にまとまっているところが憎い。
「さいっこうです! これもパンにあいますねぇ!」
スープ同様にパンをアクアパッツァのスープに浸して食べる。これはこれで、また……。
今日はパンを食べ過ぎてしまいそうだ。
「お嬢さまの食べっぷりに勝る解説もありませんね」
「本当に」
「私はネクターさんのお料理解説も聞きたいですよ!」
「短めで頼む」
私からネクターさんへとフィーロさんの視線が移されると、ネクターさんは「う」と言葉を詰まらせて「難しいですね」と苦笑した。
だけど、その顔はどこか誇らしげで、本当に料理人としてのプライドが彼の中に戻ってきたんじゃないだろうか、と思える。
ネクターさんは、料理長に戻ってくれるだろうか。
本当は戻りたいんじゃないかってずっと思っていたけれど、ネクターさん自身からその言葉を聞いたことはない。
……いつか、ちゃんと聞いてみよう。
そんなことを考えて、私はハタと気づく。
もしも、ネクターさんが料理人に戻りたいとして……お母さまたちがそれを認めたら、その時は。
いや、そうでなくても私とネクターさんの旅はどうしたって終わりを迎える。
私は貿易業を継ぎ、ネクターさんは今まで通り、お屋敷の料理長として厨房にこもりきりになるだろう。
そうなったら、私たちは、もう顔を合わせることもなくなってしまうのではないだろうか……。
「お嬢さま?」
ネクターさんの声と同時、窓の外に稲光が走った。
「な、なんでもないです!」
窓をたたく雨音。
フィーロさんが言った「嫌な予感」が、なぜだか私の胸にもよぎった。




