184.海の上の境界線
船旅から四日目の夜。
珍しくフィーロさんから私たちに「甲板で食事にしよう」と誘ってくださって、私とネクターさん、フィーロさんは甲板の一角に置かれたテーブルに夕食を広げる。
船内のレストランで出される食事も、明日の夜からはズパルメンティのものに変わる。
紅楼の濃い味付けが、少し恋しくなりそうだ。
「外で食べるのも気持ちがいいですね」
海風にブロンドの髪を遊ばせているネクターさんは、波山豆腐へと手を伸ばしていた。
波山豆腐は辛味もあるし、味付けも濃いから、ネクターさんでも楽しく味わえるのだろう。
「本当に! 今までずっと船内で食べてたのがもったいないくらいです! フィーロさん、誘ってくださってありがとうございます」
「良かった。今日は二人に見せたいものがあって」
「見せたいもの?」
「まだ、もう少し先だ」
フィーロさんはもったいぶるようにご飯を口に運んで、会話を中断した。
実際にフィーロさんがいう「見せたいもの」はまだ先だったとしても、どんなものか気になってしまう。
私がチラチラとフィーロさんを窺っていると、料理をごくんと飲み込んだフィーロさんは口元をぬぐって微笑んだ。
「気になる?」
「もちろんです!」
「境界線だよ」
「境界線?」
「そう。紅楼とズパルメンティの境界、海の領域を区切る場所がもうすぐなんだ」
「へぇ! 境界線って見えるんですか⁉」
「紅楼とズパルメンティの間はね。他のところは知らない」
「今まで、そう言ったものを見た記憶はありませんね。僕らが見ていないだけかもしれませんが……」
そもそも、海に境界線が見えるなんて想像もつかないや。
確かに、貿易業の勉強をしているときに国境だとか境界線の話はあった。どこから関税がかかるとか、貿易をするためのルートはどうだとか。
だけど、それらはあくまでも座標で管理されているもの。物理的な境界線は見たことがない。
「どんな感じなんですか?」
「水の溝がある」
「えっ⁉」
「冗談」
「フィーロさんも、冗談なんておっしゃられるんですね」
ふっといたずらに笑うフィーロさんに、ネクターさんが少し意外そうにつぶやけば
「嫌いじゃないよ」
とフィーロさんはますます目を細めた。
知れば知るほど、かわいらしくて良い人だ。
「実際は、水上に光の線がある。小さいライトがいくつも連なってるんだ」
「海の上を⁉」
「相当な距離ですね。ずっと続いている訳ではないのだと思いますが……」
「そうだな。綺麗だから、楽しみにしていてほしい」
海の上を横切る境界線。光の線路は想像するだけでも綺麗だと分かる。
おいしいご飯を食べながら、そんな素敵な景色が見られるなんて!
「二人なら、気に入ると思う」
「はい! 今からすっごく楽しみです!」
「そうですね。ますます料理がおいしくなりそうです。食事がおいしいと思えるのは、何も味のせいだけじゃありませんから」
誰と一緒に食べるか、どこで食べるのか。そういういろんなことも食事には絡んでくるのだとネクターさんが説明してくださる。
今までの旅で身に染みていたけれど、やっぱりネクターさんが言うと説得力があるな。
しばらく三人でそんな会話をしながら、のんびりと食事をしていたら、次第に甲板へ人が集まってきた。
どうやら他の人も海の境界線を見に来たらしい。
すっかり日が落ちて真っ暗になった海の向こう側、ほんのりと明るく光っている場所が見えてきて、私たちも食事の手を止める。
「あれですか?」
「あぁ」
フィーロさんが、ツイと指先を海の方へと向ける。
タイミングよく波が立って、境界線が私たちの前へと姿を現した。
「……うわぁっ!」
海に横たわる光の群れ。
波に揺られてゆらゆらと泳ぐその様に、私たちみんなの声が一斉に上がる。
「綺麗!」
海の果てにどこまでも続く光路。小さなライトがいくつも明滅して、夜の波に飲み込まれながら、点いたり消えたりを繰り返す。
ここが、長く続いた旅の終わりになる人もいれば、長く続く旅の始まりになる人もいるのだろう。私たちみたいに、通過点となる人も。
「素敵ですねぇ」
「えぇ、本当に」
横を見れば、ネクターさんの美しい横顔がきらめいて見えた。
フィーロさんは、懐かしそうに目を細めていて、故郷へ戻ってきたことを噛みしめているみたいだ。
「ズパルメンティでも、たくさん良いことがあるといいなぁ」
「きっとありますよ。お嬢さまとなら、どんなに辛いことがあっても、最終的には良かったと思える気がするんです」
「なんだか、ネクターさんがポジティブで……別人みたいです」
「……すみません」
冗談を言えば、ネクターさんがしゅんとうつむく。そんな彼の姿がかわいくて、私は思わず笑ってしまった。
フィーロさんも「相変わらず、仲が良いな」と私たちに笑う。
「ようこそ、ズパルメンティへ。エンほどのもてなしは出来ないが、ズパルメンティも良い国だと保証する」
フィーロさんの濃紺の髪は、海と夜空の色に溶けていて、でも、美しかった。
船が境界線をゆっくりと超える。
近くで見ると、ライトはガラス玉のようなものの中で炎がチラチラと揺れているように見えた。
「なんだか不思議なガラス玉みたい。境界線ってどういう仕組みなんですかね?」
「紅楼とズパルメンティの共同開発だ」
「そうなんですか⁉」
「紅楼が耐久性の高いガラスを作り、ズパルメンティが内に宿る永遠の火を魔法で生み出した」
それぞれの国の強みを活かして、長い航海が少しでも良い物になるように、と考えられたのだ、とフィーロさんが優しく語る。
「なんだか、そうやっていろんなところで繋がってるんですねぇ」
プレー島群は島国が集まっていて、互いに全く異なる文化を持っているけれど、それぞれが助け合っている。
「私、ますます貿易業を継げるのが楽しみになってきました!」
「お嬢さまは、どんどんたくましくなられますね」
「それもこれも! ネクターさんがずっと一緒に旅をしてくれたおかげです!」
「……いえ、僕は何も。お嬢さまには助けていただいてばかりですよ」
「えへへ~! それを言うなら、私もですから!」
境界線のおかげでキラキラと輝く海。
いよいよ、三つ目の国。ズパルメンティ到着も近い。