174.彼が取り戻したものは
「少し……甘みを感じます」
ネクターさんは、噛みしめるように呟いた。
答え合わせを頼むかのような視線。何かにすがるようでもあって、何かに祈るようでもあった。
「……ネクターさん」
私はうなずいて見せる。
紅楼のお茶は、甘くて優しい。茶葉に何種類かの花が混ざったような、自然な甘さ。
その繊細な味を、わずかでも自ら感じ取ることが出来ているのなら――
「もう一杯、いただけますか」
ネクターさんが陶器をエンさんの方に差し出す。
エンさんは「もちろんだ」と急須をすぐさま傾けて、その美しく透き通った若草色をなみなみと白い陶器へ移す。
ネクターさんは戸惑うことなく口へ運んだ。
まるで先ほどの感覚を忘れないうちに、と急いているように見えるくらいに。
けれど、その一口はわずかで。二度、三度と少量に分けて飲み、都度、口の中でその味わいを体に覚えこませているようだった。
じっくりと味わう姿は、まさに料理人のそれだ。
「どうだ?」
確かめるようにフィーロさんが尋ねる。エンさんも、ネクターさんの反応を窺っている。
「……甘いです、先ほどよりも。たしかに感じる」
ネクターさんはゆっくりと息を吐き出して、静かに陶器を机の上へと戻した。
数度。繰り返される深呼吸の音が、やがて小さく震えだす。
――ネクターさんの頬に一筋の涙が伝った。
二年ぶりに、自らの舌で味を感じる。
その喜びを言葉に表すなんて、きっと誰にもできない。
静かにポロポロと涙を流すネクターさんに、私の体が反射的に動いていた。
隣にいるネクターさんの背に思い切り腕を回して、強く抱きしめる。
そうでもしなくちゃ、私だって、喜びを表すことは出来なかった。
まだ、完全に戻ったわけではないはずだ。
そもそも、絶対味覚なんて出来過ぎた才能を授かって、料理人として苦労も努力もしてきた彼にすれば、お茶が甘いと分かるなんて当たり前のこと。
けれど、今はそれだけで十分。
「……良かっだぁぁぁ……」
私がボロボロと涙をこぼせば、ネクターさんも私の背に腕を回し、首筋に顔をうずめる。
互いに身を寄せ合って、その鼓動の音が重なる瞬間を耳にする。
「本当に、良がっだでずぅぅ……、うぅ……ネクターさんが、ずっと、ずっと、苦しんでたって、私、最近まで、知らなくて……。それが、不安で、怖くて、寂しくて……でもぉ」
嫌々ながらも教えてくれた過去のことも。
私のことを信頼してくれて、話してくれた絶対味覚を失ったことも。
ネクターさんが感じた辛さを全部、救えたわけじゃない。それでも、ほんの少しでも力になれたって思っても、いいのかな。
「……本当に、ほんとうに、よかった」
私が何度もつぶやくと、ネクターさんが私を抱きしめてくれる力が強くなって、耳元でかすれた声がした。
「お嬢さまの、おかげです。全て、お嬢さまの」
ネクターさんの優しい穏やかな声が、しんと胸につもっていく。
「お嬢さまと、共に旅を続けてこれて……良かった……」
ズビ、と鼻をすする音が私のものなのか、ネクターさんのものなのか分からないくらい、私たちは一緒に泣いた。子供みたいに。ずっと。
紅楼のお茶の香りが、ふわりと私たちを包む。
心が落ち着く、優しい香りだった。
*
私とネクターさんが落ち着いたのは、それから数分が経ったころ。
ずいぶんと長い間、二人して泣き続けていたけれど、エンさんとフィーロさんはずっと静かに見守ってくださっていた。
泣き止んだ私たちに差し出されたお茶。
陶器から上がるやわらかな湯気をたっぷりと吸いこんで、私たちは口へ運ぶ。
お茶の味にほっと息を吐いたのは同時で、それだけで、ネクターさんに味覚が少しでも戻ったんだと思えた。
「正直、味覚が戻ったと言ってもまだ完全ではありません。このお茶だって、おそらくもっと様々な味がするはずですし……以前なら、茶葉を言い当てるくらいは出来たんです。でも……」
お茶を飲み終えたネクターさんは穏やかに微笑んだ。
「今は、すごく幸せです。三人とも、本当にありがとうございます」
「完全には戻らなくても、料理人は続けられる。世の中、絶対味覚なんてものを持ってる人間の方が珍しい。これでお前も、俺と同じ凡人料理人ってわけだ」
エンさんがにっと意地悪に笑うと、ネクターさんもふっと目じりを下げた。
「凡人、か。悪くない響きだね」
馬鹿にしてるだろ、とエンさんが軽くネクターさんを睨むと、彼は心底嬉しそうに否定する。まさか、と一言答えただけだったけれど、その声色は優しくて、心の底から喜んでいるようにも聞こえた。
「料理人に戻るかどうかは、決められないけど」
「お嬢さんの屋敷を本当にクビになった時は、紅楼に来ればいいさ。俺が雇ってやるよ」
エンさんが冗談交じりに笑うと、ネクターさんも軽く笑う。
話題が途切れて、一瞬の沈黙が場に落ちる。
瞬間――
「……ただ」
ネクターさんは何かを言おうか、言わまいか、と一瞬考えを巡らせて目を伏せる。
「どうかしたんですか?」
気になっていることがあるなら言ってほしい。もう、何かを内緒にして、一人で抱え込まないでほしい。
私が続きを促せば、ネクターさんも決心したように顔を上げた。
「欲を言えば……もう少し、味を思い出したいところではありますけど」
ネクターさんが初めて見せた、自分自身の願望。欲求。
それは、どんなわがままよりも、私にとっては嬉しくて、大切なことに思える。
「もちろんです! これからもたくさん、いろんなものを食べて、いろんな味を感じていきましょう! ネクターさんが、満足するまで!」
今までネクターさんが感じられなかった分を取り返さなくちゃ。
「ズパルメンティの良い医者も紹介しよう」
こういうのは少しずつ良くなっていくもんだ、とフィーロさんは静かに告げた。
今までなら断っていそうなところだけれど、ネクターさんも素直にうなずいている。
「出来れば、ズパルメンティのおいしいお店も」
そう付け加えたネクターさんは少し照れくさそうにはにかんだ。




