162.旅、これからも、これからは
ネクターさんは「エンが泣くなんて珍しいですね」と小さく笑った後、
「それに」
と、私の方へと手を伸ばした。
ゆっくりと頬を撫でられ、私の鼓動が高鳴る。
「お嬢さまも、せっかくのかわいらしいお顔が台無しです」
涙の痕をぬぐわれたのだと分かって、私はむっと口をとがらせる。
「誰のせいだと思ってるんですか……」
「申し訳ありません。本当に僕は、従者に向いていませんね」
「だって、ネクターさんは料理長ですから」
「先ほども申し上げたように、僕はもう料理の味が分からないのです。料理長には戻れませんよ」
「でも! 二年も前に味覚を失ってて、それでも料理長を続けてこれたじゃないですか! それに、私との旅の間だってずっと一緒にご飯を食べて……」
言いかけて、私は今までのことを思い出す。
ネクターさんは、いつも、料理の感想を口にはしてこなかった――
「お嬢さまの素晴らしい感想のおかげで、僕も久しぶりに料理をおいしく感じました」
「そんな、こと……」
「味覚を失っても料理長を続けられたのは、同じ厨房にいた料理人たちや、前料理長が残したレシピのおかげです。新しい料理をお出しすることは出来ませんでしたが、それで何とかやってこれました」
「で、でもっ! ネクターさんは焔華結晶だって飲んだんだし! きっと、戻ってるはずです!」
「……そうだと良いのですが」
ネクターさんは困ったように笑って、「存外、怖いものですね」と呟いた。
試してみればいいだけのことだ。ちょうど晩ご飯の時間なのだし、狩ったばかりのドラゴン肉だってある。
エンさんがおいしい料理を作ってくれるはずだ。
だけど……もし、これで味覚が戻っていなかったら?
今のところ、焔華結晶以外に病気を治す方法は見つかっていない。
ましてや、原因が精神的なものからきた味覚障害だなんて。普通の風邪や、治療法の分かっている病気でもない。
「ごめんなさい……無神経な、ことを」
「いえ。お嬢さまが謝るようなことは何もありませんよ。試してみましょう。エン、晩ご飯をお願いしても?」
「……わかった」
エンさんはゴシゴシと自らの顔をぬぐう。
「そう言うと思って準備してたんだ。体に異常はないだろうが、あれだけの高熱が出た後だ。一応病人だからな、お前は寝ててくれ」
エンさんはそれだけ言い残すと、寝室を出ていった。
「私も、何か手伝って……」
料理は出来ないけれど、と寝室の外へ向かおうとすれば、つい、と服の裾が引っ張られた。
「お嬢さま」
ネクターさんの声に呼び止められて、私の足も自然と止まる。
「お嬢さまは、ここにいてください」
「でも……」
「もう少し、お話しなければならないことがあります」
先ほどまでとはうってかわって少し冷ややかな声のトーンに、私はなんだか嫌な予感がする。体ごとネクターさんから視線を外したけれど、ネクターさんの視線が肌に突き刺さっているような気がした。
「僕のせいで、こんなことになっていると重々承知はしておりますが……それでもなお、僕を従者と思ってくださるのなら、お話を聞いていただけますか」
遠慮がちながらも、有無を言わせぬ圧。エンさんが知っているネクターさんは、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。
ネクターさんのことは従者だと思っているし、これからも一緒に旅をしてほしいとは思う。思うけれど! できれば返事をしたくない。
とはいえ、従者と思うなら話を聞け、だなんて。初めからこちらに選択肢などないようなものだ。
「……な、なんデショウ」
ダラダラと私の頬に冷や汗が伝う。
予想通り、というべきか、ネクターさんは大げさなため息をついて「お嬢さま」と咎めるような声色で私を呼んだ。
「仮にもテオブロマの一人娘が、相談もなしに、ドラゴン狩りなんて危険な場所へ進んでいこうとするのはおやめください。今後、そのようなことがあれば……僕は、本気で怒りますよ」
いや、っていうかもうすでに、本気で怒ってませんか⁉
「もちろん、僕を心配してくださったことは心から嬉しく思っておりますし、お嬢さまにこんなことを言える立場でないことは分かっているのです。……でも」
ネクターさんはそこで言葉を切ると、そっと私の体を反転させた。強制的に視線がぶつかって、私は「う」と言葉を詰まらせる。
「お嬢さまがいなくなってしまったら、僕は……」
綺麗な顔が苦渋に歪む。琥珀色の瞳が切なげに揺れ、今にも涙がこぼれ落ちてしまうんじゃないかと思った。
「どうか……これからは、もっと僕を頼ってください。僕も、今後はお嬢さまに隠し事をしないと誓います。だから、相談してください。一人で無茶をしないでください」
ネクターさんはしっかりと頭を下げる。
私が促さなくとも自然に上げられた顔からは迷いや悲しみは消えていて、代わりに、覚悟が刻まれていた。
「僕らは、二人で、旅をしているのですから」
ネクターさんがそっと私の手を握り、そのまま手の甲を口元へと近づける。
従者としての誓い。古い習わし。
「……これからも、僕をお側においてください」
まるで、プロポーズのような契約。
今までにないほど熱を持った瞳に射抜かれて、まだネクターさんは熱があるんじゃなかろうか、と私の脳裏にそんな考えがよぎる。
けれど、握られた手の温度はいつも通りで、その現実が私の考えを真っ向から否定していた。
「わかりました」
迷う間もなく口をついて出た返事に、ネクターさんの顔がほころぶ。
花が開くような美しい笑みに、私の心臓は爆発寸前だ。
「ね、ネクターさんも! 約束ですよ! 絶対にもう! 隠し事はしないでください! 苦しい時も、辛い時も、悲しい時も……どんな時だって、絶対に一緒にいますから! 内緒にしないで、ちゃんと話してください!」
これ以上は視線を合わせられない。顔が真っ赤になっているのが分かる。
私が慌てて視線を外し、ツンといつもより高飛車な態度で告げれば、ベッドの方からクスクスと心地の良い笑い声が聞こえた。
「まるで、プロポーズのようですね」
「もうっ! そのセリフ、そっくりそのままお返しします!」
バカネクターさん! と私が叫ぶと同時、扉が開いて
「おっと……お邪魔だったか、悪い」
とエンさんのからかうような声が聞こえた。
私たちは握っていた手を同時に離して、エンさんに答える。
「「違います!」」
そろった声が静かな山小屋いっぱいに響いて、エンさんは笑い声をあげた。




