150.その笑みは紅楼に輝く
香炉宮での食事も終え、私たちはエンさんと別れた。
磁鉄鉱魚の入手ルートを香炉宮の人に聞きに行く、とエンさんが早々に去っていってしまった、という方が正しいけれど。
「なんていうか、エンさんってすごく行動力がありますよね」
「彼は昔からそうなんですよ。お嬢さまも、僕からしてみれば同じですが」
ネクターさんは苦笑しながらも、エンさんの背中を見送って呟く。
「僕はどうやら昔から、ああいう人間をうらやましい、と思ってしまうクセがあるようです」
「今の言葉、エンさんが聞いたら喜ぶでしょうね」
「内緒にしておいてください。お嬢さまも、エンと何やら内緒にしていることがあるでしょう?」
何かを見透かすように、すっと目を細めてこちらに視線を送るネクターさん。
私は慌てて両手と顔をブンブンと振る。
「ななな、ないですよ、ないです!」
「分かりますよ。二人して過去の話ばかり。特にお嬢さまは、今まで僕の過去については聞いてこないよう気を遣ってくださっていたでしょう」
「そ、それは……!」
「別に、責めているわけではないのです。ただ、先ほどもエンが話したように、僕の過去は面白いものではありません。多くの人の妬みや羨望、好奇の目にさらされ、料理だけが、僕の信じられるものでしたから」
ネクターさんはため息を吐くと、「少し歩きましょうか」と来た道を戻る。
「僕が、自分自身が少し特殊な人間だと自覚したのは、十二の時でした。それまでは、みんなそんなものだろうと思っていたのです」
珍しく自分から過去を語りだしたネクターさんの声を聞きもらさないよう、私は彼の後ろをついて歩く。
彼の顔は見えないけれど、その声色は曇っている。
「絶対味覚に気付いたのは、父と、その仕事相手の方とレストランに食事へ行ったのがきっかけです。その方はずいぶんとグルメでしてね。やたらと父や僕に味の感想を聞いては講釈を垂れるのがお好きでした」
少しのトゲを含んだ言い方は、当時のネクターさんの心境を表しているのだろう。
幼い子供にとって、親と一緒とはいえ、ただでさえ親の仕事相手と食事だなんて緊張するだろうに、そこに色々とお小言がついてきたんじゃたまらない。
「その方が、僕の感想を聞いて目を見張ったのです。そしてすぐさまレストランの料理人を呼びつけ、僕の言ったことを伝えました」
「それで、ネクターさんには絶対味覚があるって分かったんですか?」
私の質問に、ネクターさんはただ首を縦に振った。
「料理は元々嫌いではありませんでしたし、料理人になるのも悪くないと思ったのもそれがきっかけではあったのですが……その後は僕も、若気の至りといいますか……」
彼は声のトーンを落としてやるせなさを隠すためか一つ、ゆっくりと息を吐く。
「まあ、能力を手にした子供なんてものは単純です」
ネクターさんはそこで口を閉ざした。
プライドが高く、頑固で、意地っ張りで、高慢に振舞う。
メイド長が以前言っていたことと、エンさんが言っていた過去がようやくつながって、私は息を飲む。
そんな料理人がいれば、当然周りは煙たがるだろう。
ただ舌が良いだけのくせに、と思う人もいるだろうし、彼の才能を妬む人もいるかもしれない。
ネクターさんは、そうして人に「本当の自分」を見てもらえないままにさげすまれ、勝手な評価をくだされ、期待され、落胆されてきたのだ。
その結果、彼は料理だけが信頼できるものになってしまった。そのことがより、彼から人を遠ざけたのかもしれない。
「……なんとなく、わかるかもしれません」
足を速めて、後ろではなく隣に並ぶ。ネクターさんの方へと視線を向ければ、彼は少しだけ驚いたようで、琥珀色の瞳いっぱいに私を映しだした。
「私も、テオブロマの一人娘として生まれましたから」
幸いにも、私には良くしてくれる人が大勢いただけのことだ。
当然、学校には一部私みたいな人を嫌っている人もいたはずだし、お母さまやお父さまのお仕事相手だって、私をよく思わない人もいただろう。
たまたま、その悪意にさらされなかっただけで。
「ネクターさんは、昔の自分を責め続けてるんですね……」
「そうかもしれませんね。僕は、自分がどれほど冷酷な人間なのか気づくのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。今更になって、ようやく気付いたのです」
今はやり直している最中なのだろう。
ネクターさんのように完璧に見えていた人にも、そんなことがあったなんて。
「……暗い、話になってしまいましたね。すみません。やはり、お嬢さまにお聞かせするようなお話ではありませんでした。従者として……いえ、人として失格です」
深々と頭を下げるネクターさんの、綺麗なブロンドヘアにそっと手を伸ばす。
ふわり。触れた感触はやわらかくて、ネクターさんだって普通の人なんだ、と実感する。
「お嬢さま⁉」
突然頭を撫でられたことに驚いたのだろう。
ネクターさんは今までにないほど驚異的なスピードで頭を上げ、体ごと半歩のけぞった。
「ふふ。ネクターさんは偉いなって思って! 私、やっぱりネクターさんと一緒に旅が出来て良かったです!」
最近、エンさんによく頭を撫でられるから、それがうつっちゃいました。
そう冗談交じりに言えば、ネクターさんは「なっ⁉」と再び声を上げる。
「エン、許しませんよ」
そうも聞こえた気がしたけれど、今は聞こえなかったことにした。
「私は、強気なネクターさんも結構好きですし……ネガティブなのも否定はしません。でも、あんまり自分を責めすぎないでくださいね! エンさんの話でも、ネクターさんは、ちゃんと努力して料理人になったんだってわかります。それに、本当はすごく優しくて真面目な人だってことも、私は知ってますから」
「……お嬢さま」
「さ、宿に戻りましょう! 今日の晩ご飯も決めなきゃいけないですし!」
ネクターさんの手を引っ張ると、彼は驚きの声を上げる。
けれどすぐさま、口角がゆるりと持ち上がったのが分かった。
「僕も、お嬢さまと旅が出来て良かったと、心の底から思っておりますよ」
ネクターさんの綺麗な笑みが、紅楼の町並みに輝いた。




