147.感じて、流行と文化
ようやく香炉宮の中へと案内されたころには、私のおなかも空腹を訴えていた。
くぅ、と小さくおなかが鳴るたびに、エンさんとネクターさんには生暖かい視線を送られる。正直、周りの女性から一身に浴びていた好奇な視線よりも痛かったくらいだ。
「お待たせいたしました、こちらがメニューになります」
制服だろうか、かわいらしいヒラヒラとしたドレスのような着物をまとう店員さんに渡されたメニューは、これまたかわいらしいタッチパネルだ。
しかも、普段ならついているはずの歯車などはなく、どちらかといえばシュテープで見かけることの多いシンプルなもの。
「シュテープにいる気分です」
私の隣に腰かけたネクターさんもお店の雰囲気を観察しながら呟いた。
「まったくだ。全体的にデシとかシュテープの雰囲気によく似ている」
円卓ではなく、シュテープでよくある対面式の角テーブルも、シンプルな店内の装飾も、少し落ち着かない、とエンさんは体をソワソワさせる。
「っていうか、このモニターに映ってるのも、デシの風景ですよね?」
窓の代わりにはめられた大型のモニターには、デシで最も有名な山、モントブランカが映っている。
「本当だな、光の祭典の写真か」
エンさんは様々な国を旅して料理人としての腕をみがいたと言っていたし、デシにも行ったことがあるのだろう。
色とりどりにライトアップされたモントブランカを見つめて目を細めた。
「最近の若い女性に人気と聞いて、何が特別なのかと思いましたが……紅楼の文化とは違うものが流行っているのでしょうか」
「そうですよね、シュテープのお洋服とか売れそうだなってさっき思ってました!」
「お嬢さまは、だんだんと奥さまや旦那さまに似てきましたね」
私の発言にネクターさんがクスクスと笑う。そんなに変なことを言ったかな、と首をかしげれば、優しく微笑まれた。
「貿易商として、ご立派になられているということですよ」
「ほんとですか⁉」
「えぇ。それはもう。様々な国の文化に触れ、歴史を知り、今を感じる。そのことで、お嬢さまの商売人としての感性も鋭くなっておられるのでしょう。どこで何が流行るのか、それを見通す先見の明は、商人として必要なことと存じます」
「えへへ! ネクターさんに言われたら誇らしいです! これからも頑張ります!」
えへん、と胸を張ると、ネクターさんは一層深い笑みをたたえた。
「応援しておりますよ」
「……お二人さん。仲良くしているところ悪いが、そろそろ注文を決めないか?」
ゴホンと咳払いが聞こえて、私とネクターさんは慌てて姿勢を正す。メニューと一人にらめっこしていたエンさんが、遠慮がちにこちらへとメニューの表示されたタッチパネルを差し出した。
「わ! かわいい!」
そこに並んでいるお料理の写真も、これまたかわいらしいものが多い。
けれど……。
「香炉? って何ですか?」
お料理の横に添えられた見たことのない不思議な容器が目に付いた。
「簡単に言えば、香りを広げるための容器だな。紅楼の一部では、香りが邪気を払うと信じられていて、食事の前に身を清めるって意味で香が焚かれることがあるんだ。この店はそれをサービスとして提供しているんだろう」
「それじゃあ、お料理の前にこの楽しむ香りを選ぶって感じですか?」
「お嬢さんの言う通りだろうな」
なるほど。女の人が多い理由がわかった気がする。見た目もサービスも、若い女性向けに考えられているのだろう。
「料理の前に香ですか……。料理の味が分からなくなりそうですが」
ネクターさんはイマイチ乙女心が分からないのか、それとも元料理人として思うところがあるのか、少し不服そうだ。
「香と言っても、そんなにキツイもんじゃないさ。どちらかといえば見た目を楽しむ場合も多いしな」
反対に、エンさんは実際に経験があるのかどっしりと構えている。
「見た目?」
「例えばこの山炉は、容器が山の形をしているだろう? これで香を焚くと、山に雲がかかったような幻想的な見た目になる。こっちの龍炉は、香の煙がドラゴンの形になびいて見えるのさ」
「ドラゴン‼」
エンさんの言葉に目ざとく私が反応すれば、
「お嬢さまは本当にドラゴンがお好きですね」
とネクターさんが苦笑した。
「それじゃ、龍炉にしよう。香は……まあ、ネクターみたいな人間は俺たちより敏感だからな。乳香なら香りも薄いし、気にならないはずだ」
「ネクターさんは鼻が良いんですか?」
エンさんの言い方が気になって思わず反射的に質問してしまう。
ネクターさんは少し困ったように眉を下げた。
「そういうわけでは、ないのですが」
「ま、その話は後にしようぜ。どうせ料理が出てくるまでに時間はあるさ」
「別に、僕の話は……」
「私、ネクターさんとエンさんの昔のこととか聞きたいです!」
「はは、後でな」
ついにこの時がきた。
今がチャンスだ、とエンさんと一瞬のアイコンタクトを交わし―――私が一歩踏み込む。
ネクターさんは少し身構えたように見えた。後で、と簡単に約束を取り付けたエンさんの方へじとりと視線を送る程度には気に食わなかったみたい。
エンさんもその視線には気づいているはずだけど、わざと気づかないふりをしているのか、
「お嬢さん、注文を頼む」
と私にタッチパネルの操作方法を教えていく。
香炉とお香を一つ。それから人数分のランチプレート。
注文のボタンを押せば、シャラン、と華やかな音がした。
「……エン。僕のことを話すのはかまいません。あなたに悪気がないこともわかっていますからね」
ネクターさんの口から諦めたようにため息が一つ落ちる。
けれど、その後に続いた言葉は強く、私とエンさんは同時に息を飲んだ。
「ですが、お嬢さまにご心配をおかけするようなことだけはやめてください」
その言葉が、ネクターさん自身に「心配をかけるようなこと」が起こっているのだと自白している。
けれど彼は、やはりと言うべきか、その具体的な内容まで言うつもりはないらしい。
「俺とネクターの同僚時代の話をすると、お嬢さんを心配させるようなことになるのか?」
エンさんはにっと挑発混じりにネクターさんを見据える。
その赤い瞳に揺れる小さな炎に触発されたのか、ネクターさんも琥珀色の瞳に鋭い光を灯した。




