137.三人の仲、やわらいで
おなかいっぱいになった私たちは、シャオさんに見送られてレストランを出た。
施設館の広々としたロビーで腰かけて、ふぅ、と息を吐く。
「幸せです……」
正直、食べ過ぎた。おなかはもうはちきれそうだし、体が重い気がする。でも、これは幸せのため息だ。
「ご満足いただけたようで良かったです。エンは良い料理人でしょう?」
「はい! とっても! あんなにおいしいお料理が作れるなんて……」
「お? なんだ? 俺の噂か」
「ひゃぃっ⁉」
「エン。いきなり現れないでください」
後ろから突然がっしりと肩に腕を回された私がビクリと体を硬直させると、エンさんは「悪い悪い」と笑ってみせた。とても悪びれている風ではないけれど、おいしいご飯を作ってくれた人だから許しますとも。
「いやあ、まさかネクターの口からほめ言葉が聞けるなんてなあ。明日は雨か」
「……失礼な」
「いいや、俺の知ってる限りじゃ初めてのことだ」
にんまりと口角を上げるエンさんに、ネクターさんはバツが悪そうに顔をそむける。
ネクターさんはよく私のことも褒めてくれるし、本当にエンさんと一緒に働いていた時とは違う人みたいだ。
「聞けば聞くほど、昔のネクターさんって尖ってたんですね……」
「そりゃもう。料理のこととなればなおさらだ。プライドは高いし、正論ばっかりで……」
「エン」
冷ややかなネクターさんの声に、今度はエンさんがゆっくりと顔をそむける。
うぅん……。ネクターさんは知れば知るほど不思議が増える。
若気の至りってやつ? 何があってネクターさんがこんなにもネガティブになったのかは分からないけれど……やっぱり、エンさんの言う通り何かあったことは間違いない。
「それで? エンは何しに来たんですか」
「そういうところは相変わらずだな。後で中庭を案内してやるって言っただろ? それに、他の施設もついでに案内するよ。元々今日はもう仕事するつもりもなかったしな」
私たちのために、特別に厨房へと入ってくださったのだろう。
改めてお礼をすれば、エンさんは「好きでやってるから気にするな」と私の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「ここは温泉もいいぞ。中庭を見たら、そのまま風呂にするか? タオルと着替えは受付に言えば渡してもらえるし……」
「ぜひ! 温泉、楽しみです!」
「じゃ、まずは中庭に行くか」
エンさんについて、私たちは本館の方へと戻る。
もう夜だというのに、宿の中も窓の向こうに広がる商店街も、港町も、たくさんの提灯や燈籠に照らされていて明るく人が多い。
ベ・ゲタルの静かな夜とは対照的だ。
「ドラゴンジーチャ、どうだった?」
ふと前を歩くエンさんから尋ねられる。
「おいしかったです! あんなにおいしい唐揚げを食べたのは初めてです!」
素直に返事をすれば、もう何度目か、くしゃくしゃと頭を撫でられた。
「お前は? ネクター」
エンさんの真っ赤な瞳が、キラリとネクターさんをとらえる。
その声色は真剣そのもので、窓の向こうから吹く風に揺れる赤毛が燃える炎のよう。
ネクターさんはしばらく黙り込んでいたけれど、
「俺は、お前の言葉を一番信頼してるんだ。料理人として」
エンさんにもう一度そう迫られて観念したのか、ふいと視線を外す。
「……おいしかったですよ。昔より、腕をあげたんじゃないですか」
ボソリと消えそうな声で呟かれた言葉。
質問したはずの張本人、エンさんもピクリと眉を動かすだけで、二人の間には沈黙が流れる。
エンさんはニコリともせず、むしろ神妙な顔をネクターさんに向けていた。
ほめられた、はずなのに。
ネクターさんは当然顔をそむけているから、そんなエンさんの表情には気づいていなくて。
どうしよう、と私が二人を交互に見ていると、エンさんがようやくふっと苦笑いをこぼす。
「……本当にどうしたんだ、お前」
人を褒めるような人間ではなかった、というのは本当なんだろう。
「……どうもしてませんよ」
ネクターさんの声も苦々しくて、この話はもう終わりだと全身で語る。
「お嬢さん、やっぱり明日は雨かもな」
「ほぇ⁉」
「どこかへ出かける予定だったか? 恨むならネクターを恨んでくれよ」
ははっと軽くエンさんが流したことで、エンさんとネクターさんの間の空気もようやく緩む。
ネクターさんは少し安堵したように肩をすくめた。
「ま、山の方はやめておいた方がいいな。ネクターのせいかどうかはともかく、本当に雨がきそうだ。山は特に天気も変わりやすいから」
ほら、とエンさんが指さした先。雲がかった月が中庭の池に映り込んでいた。
「ここが中庭。シュテープやベ・ゲタルと違って、石や岩を中心に作るんだ。珍しいだろ?」
「ほんとだ……! でも、綺麗ですね、なんだか落ち着きます! 少しの緑と、小さい池のおかげでしょうか?」
岩山の連なる紅楼を思わせる庭園は、石が敷き詰められていてすっきりと洗練した印象を受ける。
低木の緑、池のきらめき。先ほど宿で見た喧騒と対照的な静寂。池にかかる柳の木も立派で、どこか優雅だ。
「俺はあまり詳しくないが、早朝には庭師が来ているから、興味があるなら聞いてみるといい」
「ありがとうございます!」
これで月が綺麗に見えていたなら言うことなしだっただろうけど。
雲がかった月が池に浮かぶ様子も、それはそれで風流かも。
「少しゆっくりしたら、温泉に行くか」
紅楼の夜風はあたたかい。私たち三人の空気をやわらげるような優しい風に、自然と目じりが下がる。
温泉から出たら、卓球かビリヤードをしよう。
ベ・ゲタルのお洋服じゃさすがに目立つから、明日はまずお洋服を買いに行こう。
ドラゴンのおいしいお肉を食べたいなら……。
そんな話をいくつかポツポツとしているうち、空にかかる雲が増えていく。
「雨が降る前に、温泉に行くか。そろそろ腹も落ち着いただろ?」
エンさんの一声で、ゆっくりとした紅楼の夜を楽しんだ私たちは、宿自慢の温泉へと向かって歩き出した。




