129.宿屋、老光旺飯店
結局、エンさんにごちそうになった私たちは、またしてもエンさんの案内で宿屋へと向かっていた。
先ほど港から見えたひときわ大きな六角形が複雑に組み合わさった建物。エンさんの勤め先でもある『老光旺飯店』だ。
「本当に大きいですね……」
先ほどの商店街を抜けると、ちょうどその建物が見えるのだけど……。
私もネクターさんに激しく同意します! というか、それしか出てきません。
一体何階建てなのだろうか。
紅楼特有の高い岩山に囲まれてもなお存在感のある宿屋は、見上げると首が痛くなっちゃうくらい。
「紅楼でも五つしかない老飯店の一つだからな。これくらいじゃなきゃ格好もつかない」
エンさんは自分の勤め先を褒められて誇らしげだ。
「はい! エンさん、老飯店がホテルって意味なんですか?」
「良い質問だな、お嬢さん。飯店がホテルの意味だ。老は老舗ってことだな。古くからあって……特に、認められた店って意味だ」
「え! じゃあ、私たち、そんなすごいホテルに泊まれるんですか⁉」
「お嬢さまの家族旅行の時は、老飯店ではなかったのですか?」
「実は、ホテルの名前まではちゃんと覚えてないんですよね。あの時はご飯のことで頭もいっぱいだったし……えへへ」
全部お母さまたちにまかせっきりの旅だった。家族旅行だからそんなものなのかもしれないけれど、もっといろんなことに興味を持てばよかったな、なんて今更ながら思う。
「お嬢さまらしいです。ずっとこの町にいるわけではありませんから、次のホテルを探すときは一緒に見てみましょうか。思い出の宿が出てくるかもしれません」
「はい!」
ネクターさんが優しい提案をしてくださって、私の心がときめく。そんな彼の姿に驚いていたのはエンさんで「人間って変わるもんだな……」と呟いていた。
以前のネクターさん……どれだけ冷たい人だったんだろう……。
「それにしても複雑な構造の建屋ですね。シュテープではまず見られません」
建物の構造に興味を示したのは、やはりというべきか、ネクターさんだ。
「あぁ、紅楼は岩山が多いだろ? 岩柱や大きな石の上に家を建てることが多いんだが、不安定な足場の上に強度のある建物を作ろうとすると、ああいう形になるらしい」
俺も聞いた話だがな、とエンさんは丁寧に教えてくれる。
「なるほど。ハニカム構造ですね」
「ハニカム?」
「ハチの巣などで使われる構造です。六角形を組み合わせることで、効率的で強い構造にすることが出来るんです」
「ネクターさんって、天才かなにかですか⁉」
「そんな大層なことでは‼」
「そういうところは昔からだな、お前らしいところを久しぶりに見て安心した」
エンさんはポンと軽くネクターさんの肩をたたいて
「ま、中に案内するよ。外だけじゃなくて、中も気に入ると思う」
と宿屋に向かって歩き出す。
エンさんに続いて大きな石橋を渡る。
商店街と宿屋の間に海へと続く大きな川があって、そこに石橋がかかっているのだ。
橋を超えたら大きな宿屋、なんてまるで何かの映画みたい。
この橋を歩いている人たちは、みんな目の前の宿屋に泊まっている人たちだろうか。思い思いに紅楼の景色を楽しんでいる。
「なんだか、良い思い出がたくさんできそうです!」
私の声に、少し先を歩いていたネクターさんが振り返る。にっこりと笑うその顔が「楽しみですね」と肯定してくれていた。
石橋を渡った先、宿屋の入り口には赤い柱と緑と金の装飾がついた瓦屋根。
黒い大きな看板には金色の文字で『老光旺飯店』と書かれていて、その風格たるや昔はドラゴンが住んでいたんじゃないだろうかと思うくらいだ。
「ほぉわぁぁ……」
「……お嬢さん、鳴き声が出てるぞ」
「す、すみませんつい! すごく格好いいです! 強そうです! 魔王とか出てきそう!」
「さすがに魔王はいないのでは……」
イケメン二人に両サイドからツッコミをもらいながら門をくぐる。
遠くから見ていた建屋が目の前に現れて、再び「おわぁぁ」と奇声が出た。
やっぱり扉がついていない入り口を抜けると、まだ昼間だというのに至るところからぶら下がった提灯が淡く店内を照らしていた。
高く吹き抜ける天井、木製の床、深い緑と赤の絨毯。木枠の窓にはめ込まれているのはガラスではなく紙のようで、外からの光がやわらかに差し込んでいる。窓にかかった布も綺麗な染色だ。
私とネクターさんがほうっとその景観に見とれていると
「行くぞ」
とエンさんから声がかかる。彼はすでに受付のところに立っていた。
「あら、エンさんじゃないですか。珍しい!」
受付の綺麗なおねえさんは、紅楼独特のデザインをあしらった制服が良く似合う。
エンさんは厨房の人なのに、やっぱりイケメンだから人気なのだろう。おねえさんの熱い視線は私でも分かるほどだ。
「実は古い友人が訪ねてきてね。予約してないんだが部屋は空いてるか? えぇっと、二人とも、この辺りにはどれくらい滞在する予定だ?」
「ひとまず……一週間でお願いします」
「だそうだ。空いてるところがあれば高くてもいい。俺の社割で頼む」
エンさんのナイスアシストもあって、おねえさんは「特別ですよ」とすぐにお部屋を用意してくれた。
差し出された鍵は木製の板。カードのようになっていて、赤と金の装飾がついている。鍵までおしゃれとはこれいかに。
「それでは、旅行愉快!」
「ほぇっ⁉」
「良い旅を、という意味ですよ。かわいらしいお客さま」
おねえさまにパチンとウィンクされる。
なんて良い人なんだ! おねえさま! 不肖フラン、おねえさまみたいになります!
パチンとウィンクを返すと「うっ!」とおねえさまが胸を押さえた。
「……お嬢さま?」
「何してるんだ?」
私とおねえさまの間に生まれた絆など知らぬ二人に不思議そうな顔をされるが、これは私たち二人だけの秘密だ。