122.まるでドッペルゲンガーだ
船の明かりだけが海を照らす甲板。
「さ、お手をどうぞ。お姫さま」
エンさんが冗談めかした笑みを浮かべて、こちらに手を差し伸べる。彼の赤い髪が海風にさらされる様はどこかの絵画みたいだ。
「さすがにお姫さまは言われ慣れてないので……ちょっと変な感じです」
私がはにかんで彼の手を取ると、エンさんはふっと笑う。その笑い方がなんとなくネクターさんに似ていて、二人は短い間でも本当に仲が良かったのだろうと思った。
「それにしても、星が綺麗ですね! ベ・ゲタルの星空も綺麗でしたけど、紅楼国も同じなんですね」
言ってから、私は「あ」とネクターさんのことを思い出す。
「そういえば、ベ・ゲタルでは、星には悲しみを癒すって意味があるみたいなんです。ベ・ゲタルでバスケットを作ったんですけど、ネクターさん、星のマークを選んでて」
「……なるほど」
「深い意味がないと良いんですが。ネクターさんは、やっぱり何か嫌なことがあったんでしょうか」
「まだ、何も分からないな」
遠くに光る星々を見つめて、私たちはしばらく閉口した。
ネクターさんのことをもっと知りたい。
私たちの目的は同じはずなのに、どこから話せばいいのかわからなくて。
沈黙が破られたのは数分後。
何度目か、船に波が打ち付ける音が空いっぱいに響いた後のことだった。
「……お嬢さまから見て、ネクターはどんなやつだ」
「ネクターさんは、格好良くて、優しくて、頼りになります。すごく賢いし、車だって運転できるし、ベ・ゲタルの言葉もしゃべれて! なんでもできるんですよ!」
「ストップ、ストップ。分かったから落ち着いて」
思わず食い気味にしゃべってしまった私に、エンさんは声を上げて笑う。
「ごめんなさい、つい!」
「いや、いいさ。それにしても、あいつが優しいとは。これまた意外だな」
「意外、ですか?」
「あぁ。ネクターはどちらかといえば、冷たい部類に入ると思うが」
「そうですかね……。あ、でも、エンさんがさっき、ネクターさんのことを頑固だって言ったでしょう? あれは分かりますよ! ネガティブで、いつも自信がなくて、一度スイッチが入っちゃうと気が済むまで謝られちゃうんです」
「……謝る?」
「はい! 初めて会った時なんて、いきなり土下座されちゃって! びっくりしましたもん!」
「あぁっと……ちょっと待ってくれ。あいつが土下座をしたのか?」
「はい。今でもたまにされそうになります」
「信じられないな」
エンさんは「本当にネクターか?」と一人呟いて、頭を抱えた。状況整理が追い付かないのだろう。
こちらに「待て」のジェスチャーをし、ブツブツと何かを自問自答している。
「双子じゃなけりゃ、ドッペルゲンガーの仕業だと思いたいくらいだ」
エンさんの言いぐさは、まるで冗談であってほしいと祈っているようにも聞こえた。
残念ながら、ネクターさんはおそらく双子ではないだろうし、ドッペルゲンガーでもないだろう。いや、双子でもドッペルゲンガーでも、それはそれでびっくりだけど!
「エンさんが知ってるネクターさんは、どんな人なんですか?」
「さっきも話した通りだ。自信家で、料理のことに関しては人一倍うるさい。言葉足らずなところがあって、誤解されやすい。頑固なのは同じだけどな」
「……自信家?」
もしかして、シュテープで使われている意味と、紅楼で使われている意味が違う?
そんなことある? あのネクターさんが?
「そうなるよな。無理はない。俺も同じだ」
「お料理のことも、感想を言うのは苦手だって言ってました。何がまずいだとか文句を言っているネクターさんは見たこともないですし」
「やっぱり、ドッペルゲンガーか」
「本物はどこに⁉」
「……消えちまったか」
エンさんの哀愁漂う演技に思わず笑うと、エンさんは「やるせないな」と横に首を振った。
ネクターさんを勝手に殺さないでほしい。
「冗談だよ。それにしても、本当にそう思いたくなるほど別人みたいだ」
エンさんは腕を組んでしばらく目を閉じた。私もそれにならって、なんとなく腕組みしてみたけれど、ネクターさんが別人になった理由はさっぱり分からない。
「なあ、お嬢さん」
いつの間に目を開けていたのか、エンさんに話しかけられて、私は慌てて腕をほどく。
「お嬢さんは、ネクターの主人なんだよな? 今は旅の最中だと言っていたが、戻ったらどうするつもりなんだ?」
「えっと……そのまま、家業を継ぐつもりですけど」
「ネクターのことは?」
じっと赤い瞳に見つめられて、そういえば私は自分のことしか考えていなかったことに気付く。
お父さまやお母さまは、ネクターさんを料理長に戻すつもりでいるだろうか。
それとも、私の付き人としてずっとそばにおいておくつもりなのか。
「……考えたこともありませんでした」
「そうか。いや、責めてるわけじゃないんだ。悪いな。ただ、少し考えてみてほしい。あいつの料理の腕を知ってるなら、なおさら」
ネクターさんがどれほど素晴らしい料理人だったかは、私も知っているつもりだ。
少なくとも、一緒に旅をしているだけでも分かる。たくさんの知識と確かな技術、お料理をどれほど愛していて、熱心に向き合っているかも。
「お嬢さん個人の意見でいい。ネクターをこのまま従者にしておくつもりか?」
「……それは……」
テオブロマとしてではなく、私、フランとしてだけの意見なら――
私はネクターさんとの旅路を振り返る。
エンさんが言うようなお小言はともかく、レシピを聞いたり、調理法を観察したりするネクターさんの姿が浮かぶ。
「ネクターさんには、これからもお料理をしてほしいです。別に、料理長に戻ってほしいとは言いません。でも……ネクターさんは、きっと、お料理が好きだから」
私の答えに、エンさんは満足そうにうなずいた。かと思うと、わしゃわしゃと私の頭を撫でて
「ありがとう。俺も、そう思っていたところだ」
と、少しだけ子供っぽいくしゃくしゃの笑みを浮かべる。
「……それじゃ、俺から一つ提案だ。お嬢さん」
エンさんはちょいちょいと私を手招きすると、他に聞く人もいないというのに、内緒話をするように耳元に手をかざした。




