118.元同僚の提案に
「まぁ、いい。それならお嬢さんから聞かせてもらおうかな」
「その前に、お兄さんのことが知りたいです! それに、ネクターさんとのことも……」
こんなにもネクターさんが気まずそうにしている姿を見るのは、メイド長との時以来だ。
あの時は、お屋敷で何かあったのかも、くらいに思っていたけれど。この男の人は、さっき、紅楼から来たと言っていたはず。ならば、お屋敷の人ではない。
出来るだけ失礼にならないように男の人を観察する。
身なりは悪くない。着ている服はシンプルなものだけれど、紅楼でよく見る装飾が首元についていた。
「そうだったな、悪い。つい、ネクターと会って忘れていた」
「私こそ、ご挨拶が遅くなってすみません。フラン・テオブロマです」
「知ってるよ、有名人だから」
ふっと笑う表情はやわらかいもので、やっぱりさっき怒っているように見えたのは気のせいだったのだろうか。
ネクターさんとは年齢も同じくらいに見える。
「俺はエン。紅楼で料理人をやってる。ネクターとは昔からの付き合いで……まあ、ライバルであり、元同僚だな」
「同僚⁉」
「お嬢さま、昔の話ですから」
驚く私の隣で、ネクターさんが苦々しく吐き出した。
思い出したくない、というよりは、これ以上その話を深掘りされたくない。そんな感じだ。
「なんだ、相変わらず冷たいな」
エンさんはそう言いながらも、口元にわずかな笑みを浮かべている。やっぱり、ネクターさんと出会えたこと自体は嬉しいのだろう。元同僚なら、なおさらだ。
「それで? お嬢さんのせいってのは?」
「えっと……実は、私、家業を継ぐための修行をして来いとお屋敷を追い出されまして。その時に、両親がネクターさんを付き人として任命したんです。それで、二人で旅を」
「……あぁっと、悪い。意味がわからない」
私の話を一通り聞いてから、エンさんはこめかみのあたりを手で押さえてうなる。
やっぱりそうですよねぇ……。話しながら、私もやっぱり何回説明しても変だなって思ってるんです! ごめんなさい、エンさん。
「つまり、その……お嬢さんは、家業を継ぐために修行中で? ベ・ゲタルには修行で来たってことか? ネクターは、付き人として?」
「そうです! ネクターさんは、元々お屋敷で料理長をしてくださっていたんですけど、なぜか両親がネクターさんを付き人にすると言って」
「シュテープでは、料理長が付き人になるなんて日常茶飯事なのか?」
「まさか! 私もよく分かってないんです。どうしてネクターさんが付き人として選ばれたのか、両親に聞く間もないまま追い出されちゃったので」
「いや、異常だって分かっただけ安心したよ」
お互いに苦笑いして言葉を濁す。
エンさんはネクターさんの方へと視線を向けて、「それにしても」と呟いた。
「まさか、お前が料理から離れる日がくるとは思わなかった。お前にも、俺にも、料理しかないと思っていたが」
その瞬間のネクターさんの顔は、忘れられない。
影がさし、曇り、雨が降ってきてしまいそうなほど、瞳が悲痛に叫んでいた。
エンさんはそれに気づかなかったのか口角を持ち上げて、私の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「ま、でもこんなにかわいいお嬢さんと一緒なら、それもアリだな。うらやましい限りだ」
イケメンに口説かれた上、頭を撫でられて視点が定まらない。
エンさんの大きな手が頭から離れた後にはもう、ネクターさんの表情もいつものちょっと困ったような、大人っぽい表情になっていた。
「そうだ! お前ら、旅をしてるんだったら、紅楼に来たらどうだ? 俺ももうすぐ戻るし、一緒に来いよ」
エンさんはポケットから何やら小さな箱を取り出すと、箱に取り付けられた歯車をキチキチと二回ほどまわして、箱のふたを開く。すると、フォン、と空中に仮想スクリーンが投影された。
「えぇっと……。あぁ、三日後の午後一の便だ。この近くの港から紅楼行きの船が出てるんだ」
「え⁉ えっと……」
「あー、そうか、船のチケットが必要だな。ちょっと調べるから待っててくれ」
「チケット⁉」
そんな急には決められない。ネクターさんを見やると、彼もまたどうしたものかと考え込んでいた。
「お嬢さまは……以前、紅楼へ行きたいとおっしゃっておりましたよね」
「そりゃ、まあ……お肉がたくさん食べられるし、紅楼の景色とかは結構好きなので」
「元々、次は紅楼へ行こうかと思ってはいたところなのです。場所的にも、ベ・ゲタルから一番近いですし」
ネクターさんはそこまで言うと、画面とにらめっこしているエンさんの様子をチラリと窺って、覚悟を決めたように息を吐く。
「彼は、信頼できる料理人です。彼と一緒に行動できるのであれば、お嬢さまもおいしいお料理を召し上がれるかと」
「で、でも……ネクターさんは、エンさんのこと……」
少し苦手そうだ、と言いかけたところで、ネクターさんは首を横に振る。
「いえ、そういう訳では。ただ、彼とは元同僚として一緒に働いていた過去があり……僕には、そのころの思い出が少々苦いのです」
だから、エンさんのことが嫌いなわけではない。そういうことだろうか。
ネクターさんも、エンさんとの再会自体は嬉しいのかもしれなかった。
少々苦い、と形容された過去が、ネクターさんが抱えている『何か』と関わっているのだろう。
ネクターさんは、あまり過去のことを話したがらないし。
「ネクターさんが良いなら……私は、嬉しいです、けど……。本当に大丈夫ですか?」
「えぇ。お嬢さまをお守りするのが付き人の役目ですから。お嬢さまが行きたいと思うところへお供させていただきます」
「お、船のチケットもまだあるぞ。どうする?」
「……分かりました。それじゃあ、私たちも紅楼へ行きます」
ネクターさんのことは気になるけれど、せっかくのチャンスだ。
それに、お料理に詳しいネクターさんが信頼をおく料理人、エンさんのおすすめも聞けるかもしれないと思うと、今を逃すのはもったいない。
「それは良かった。うまい店を紹介してやるよ。二人が紅楼にいる間は、案内もしよう」
エンさんが「決まりだな」とうなずいたところで、店の奥から店員さんが戻ってきて、店内にカレーのスパイシーな香りが広がる。
私たちは次なる国、紅楼への想いを馳せながら、ベ・ゲタルの味を噛みしめた。