115.二人の珈琲ブレイク(1)
突然降り出した大雨は、一時間としないうちに過ぎ去っていった。
けれど、ネクターさんの心は晴れないまま。
お買い物へ出かけるつもりだったけれど、先ほどの大雨でまた地盤がゆるんでいるかもしれない。ちょうど良い機会だ。
私は部屋にこもろうとするネクターさんをリビングでつかまえた。
出来るだけ、ゆっくり話がしたい。それも、自然な感じで。
私は必死に頭をフル回転させて作戦を考える。
ネクターさんの興味をひけそうで……二人で出来て……そうだ!
「ネクターさん! モカさんたちからいただいたビットンが飲みたいです! 私に、珈琲の淹れ方を教えてくれませんか?」
以前、一緒にお料理をした時は自然と話が出来たし、これならネクターさんだって興味を示してくれるはず!
「……僕が淹れますから、お嬢さまは」
「いえ! 私がやってみたいんです! アオを育てた時もそうだったけど、やっぱり、自分でやってみて初めてわかることもたくさんあるし……。珈琲だって、自分で頑張った方がおいしそうじゃないですか!」
ちょっと無理があるだろうか。
チラリとネクターさんの顔色を窺いつつ「ね?」とダメ押しの笑みを浮かべる。ついでに「ダメですか」と上目遣いのコンボを決めてフィニッシュだ!
「……はぁ。わかりました、お嬢さまがそうおっしゃるのであれば。ただ、僕も執事長ほど珈琲を淹れ慣れてはおりませんから、おいしく淹れられるかどうか……」
自信なさげに目を伏せつつ、ネクターさんはキッチンへと向かう。
渋々ではあるものの、付き合ってくれるみたい。良かった。
やっぱり、こういうところが優しいと思うんだけど。ネクターさんにはその自覚がないのかな。
何もない。
ネクターさんはそう呟いていたけれど、私にはネクターさんほどたくさんのものを持っている人も珍しいと思う。
「では、まずはお湯を沸かしましょう」
ネクターさんは、ポットにお水を入れる。
「このボタンを押してください」
どうやらケトルは電気式らしい。
私は言われるがままにボタンを押す。しばらくすると、コポコポとケトルから音がし始めた。
その間に、ネクターさんがビットンの袋を開ける。
「粉にしてくださっているみたいです。このまま、ドリッパーにセットすればすぐ飲めそうですね」
「ドリッパー?」
「このビットンの粉をこして、珈琲を抽出するためのものですよ」
ネクターさんがビットンの入った袋を傾けて、中を見せてくれる。てっきり豆が入っているのかと思っていたけれど、サラサラとした黒い粉末が入っていた。すぐ飲めるように、豆を挽いておいてくれたらしい。
ネクターさんが、引き出しから薄い紙を取り出す。扇型のそれが、『ドリッパー』だそうだ。
ついで、ちょっと変わったカップみたいなガラス容器もネクターさんは取り出した。
「ここに、この紙をセットします。紙を開くと……」
ネクターさんがカパッと紙を開くと、円錐状に広がった。それが、先ほどのガラス容器にぴったりとりつく。
カップの中に紙をセットしているネクターさんを見てピンときた。
「分かりました! それで、ここに粉を入れて、上からお湯を注ぐんですね?」
「正解です」
ネクターさんがふっとやわらかな笑みを浮かべる。
やっぱり、ネクターさんは笑顔が一番素敵だ。
「ビットンの粉は、本来は飲みたい量に合わせて計量して入れるのですが、今回はちょうど二人分だと思いますので、やってみますか?」
「はい!」
ネクターさんに「気を付けてくださいね」と心配されつつ、ゆっくりビットンの粉をドリッパーの中に移し替えていく。
全てを移し終えると、ちょうどカチリ、とケトルがお湯を沸かし終えた。
「僕も聞いた知識でしかありませんが、おいしい珈琲を淹れるにはここからが重要なんだそうです。えぇっと、確か……」
ネクターさんはポケットからメモを取り出した。ずいぶんと使い込まれているそのメモをパラパラとめくって、あるページで指を止める。
「まずは……粉全体にお湯がしみ込むくらいまで、真ん中から外側へ向かって渦を描くイメージでそっとお湯を注ぐんだそうです」
「やってみても良いですか?」
「もちろんです。お湯が熱いので、やけどしないよう気を付けてくださいね」
ネクターさんからケトルを受け取って、私はそっと中央へお湯を注ぎ入れる。
こぼしてしまわないように丁寧に渦を描いていく。
「出来ました!」
「では、少しこの状態で蒸らします。蒸らし終わったら、今度は真ん中に小さな円を描くように注いでください。ドリッパーの中のお湯が増えて表面が平らになったら、注ぐのを止める、と書いてありますね……」
「了解です!」
ビシリと敬礼をすると、ネクターさんは「話している間にそろそろ」とドリッパーを指さした。
お湯を注ぐ前に比べて、もこっと一回り分ほど多くなっている気がする。
今度は小さな円を描くように、とその形をイメージしながらお湯を注いでいく。
思っている以上にすぐ表面が平らになって、もこもこと白い泡が中央に現れた。
「そうしたら、この泡が消える前にもう一度。先ほどより少ないお湯の量で結構です」
まさかすぐに次を指示されるとは思わず、私は慌ててケトルを傾ける。
「大丈夫ですよ、落ち着いて。ゆっくりでかまいませんから」
ネクターさんの穏やかな声は、自然と冷静にさせてくれる。
私は先ほど同様、ゆっくりとお湯で小さな円を描く。
さっきよりも少なめに、と言われた通り少なくして手を止めたら「もう一度、量を減らして」と再びネクターさんから指示がとんだ。
ネクターさんの指示は簡潔でわかりやすい。やっぱり、料理長だったから? テオブロマの厨房がどんな様子だったのかは知らないけれど、きっと何人かにたくさん指示を出していたはずだ。
その作業を数回繰り返したところで、ネクターさんからストップがかかる。
お湯は少し残っていたけれど、それはマグカップを温めるために使うらしい。
お湯でマグカップを軽く注ぐと、ネクターさんは「完成です」と満足げにうなずいた。
簡単な作業だったけれど、二人でやったからなのか、達成感もあるし自然と空気が和む。
良かった。私が別の意味で安堵の息を吐き出すと、ネクターさんもようやく肩の力が抜けたのかやわらかに目を細めた。




