108.苦渋と葛藤、決断は
ログハウスの二階、バルコニーからは淡いガラスランプに照らされてどこまでも広がる森と満天の星が見える。
ネクターさんが買ってきてくださったお薬のおかげでおなかの痛みもなくなった私は、コンテストの参加券が入った封筒を右手にため息を吐いた。
「……どうしよう」
すっかり忘れていた。
セージワームコンテストは、セージワームの味を競うコンテストで――それはつまり、コンテストに参加すれば、アオは食べられてしまうということ。
セージワームのおいしさはすでに知っているし、コンテストもすごく楽しみだけれど。
「アオは、調理されちゃうんだよね」
はじめは苦手だったはずなのに。今じゃ家族みたいな存在で、食べるために飼育していたことなんて嘘みたいだ。
いろんなところへ行って、おいしいものを食べて、たくさんの思い出を作ったのに。
「でも……」
封筒からコンテストの詳細が書かれた紙と参加券を引っ張り出す。
「参加を辞退される場合は、こちらまでご連絡ください……」
何度も読み返したせいで覚えてしまった電話番号。そこへ電話をかければ、アオとはまだ一緒にいられる。
「お嬢さま」
声の方へと振り返ると、マグカップを両手に持ったネクターさんが立っていた。
「まだお体も万全ではないでしょう。中にお戻りになられては」
「……そう、なんですけど」
できれば、少しでもアオから離れたかった。せめて、コンテストに参加するかを決めるまでは。
ネクターさんは何を察したか、私の前にマグカップを置く。
「では、ご一緒しても? ホットオレンティーです。体があたたまります」
「ありがとうございます」
爽やかなオレンの香りと、ほんの少しのスパイスの香り。手から伝わる温度が体だけでなく心まで温めてくれるような気がして、マグカップを両手で包みこむ。
ネクターさんは隣に腰かけると、マグカップにそっと口をつけた。
なんだか、こうして二人でいるのも久しぶりだ。
最近はアオがいたから。二人と一匹。小さな命だけれど、その存在は大きい。
「コンテストのことを考えていらっしゃったのですね」
私の手の中でパタパタと風になびく紙へ視線を移したネクターさんは、ふっとその目を遠くへと向ける。
「……参加を辞退するとおっしゃられるかと思っておりました」
「実は、少し迷ってるんです。もし参加を辞退したとしても、アオは私たちほど長くは生きられないですよね」
セージワーム大図鑑にも書いてあった。セージワームの寿命は長くても約三か月。コンテストに参加しなくても、アオは近いうちに寿命を迎える。最後は少しずつ体が固くなっていって、干からびたようになるらしい。そうなれば、もちろん食べることも出来なくなる。
「食べても食べなくても、アオとのお別れは来て、どっちを選んでもきっと後悔はするんだろうなって思ったら……どっちがいいのか分からなくて」
コンテストに参加したら「参加しなければもっと一緒にいられた」と思うだろう。けれど、参加しなくても、お別れの時に干からびたアオを見て「おいしく食べてあげた方が良かったんじゃないか」と思ってしまう気がするのだ。
「おいしく食べてあげたいって思う気持ちもあるんです。変かもしれないけど……ちゃんと食べて、その命を無駄にしないように生きていきたいっていうか……。自分の中にアオがいるって、世界で一番おいしいセージワームだったって思える方が良いかなって……色々考えたら、決められなくて」
結局は私のエゴだ。
アオは私たちに食べられることなんて望んでいないと思うし。
でも、ベ・ゲタルではセージワームは立派な食べ物で、食べ物を粗末にしちゃいけないとベ・ゲタルの人が思うのもまた事実だろう。
「……お嬢さまは、アオを食べたいと思いますか?」
「その言い方は語弊が……」
「ですが、そういうことです。お嬢さまがアオを食べたいと思うのならば、コンテストには参加すべきです。それがアオのためになるかどうかはわかりませんが、少なくとも、お嬢さまのためにはなるはずです」
ネクターさんの表情は真剣そのものだ。
「自らが育てたものを食べる。それは、食事をおいしく食べる方法の一つです。何より、食べることだけでなく、命を繋ぎ、自らが生きるということの大切さを知る機会になります」
元料理人の立場で言えば、と彼は付け加えて、困ったように眉を下げた。
「とはいえ、僕も素直にコンテストへ参加するとは言えませんね。アオとは思い出を作り過ぎましたから」
「アオは悲しんじゃうでしょうか。自分を食べるなんてって」
「それは、アオに聞いてみなければわかりません。案外、聞いてみれば答えてくれるかもしれませんよ。アオは賢い子ですから」
ネクターさんは祈るように目を伏せて、ゆっくりと立ち上がる。
「少し、待っていてください」
部屋の方へと戻っていくネクターさんの後ろ姿は、何かを決意したみたいだ。
残された私の体をベ・ゲタルの夜風が冷たく撫でた。
頭上にまたたく星々。ベ・ゲタルでは心の傷を癒すために星を見上げる。そう教えてもらったのはつい最近のことだ。
「アオを連れてきました」
「ぴぇ~」
指にアオをのせたネクターさんが戻ってきて、私は視線を星から彼へと移す。
もぞもぞとネクターさんの手の上で体を動かすアオは、何を聞かれるかも知らずに、いつも通りのんびりとしている。
そんなアオの姿に、こちらの毒気が抜かれてしまいそうだ。
「アオ、これは、セージワームコンテストの参加状です。コンテストに出場すれば、あなたは食べられてしまいます」
「ぴぇ⁉」
テーブルの上に広げられた紙にのせられたアオは、言葉の意味が分かるのか、ビクリと体を揺らして声を上げた。
「ネクターさん!」
さすがにアオがかわいそうだ。ネクターさんの服の裾を引っ張ると、彼はふるふると首を横に振る。
「大切なことです。アオには酷かもしれませんが、僕らはアオに説明する義務があります」
ネクターさんはそっと私の手をほどいて、再びアオを見つめた。
「良いですか、アオ。あなたは、コンテストに出なくても、あまり長くは生きられません。あなたには選ぶ権利がある。コンテストに出て僕らに食べられるか……自らの生をまっとうするか」
「ぴぇぇ……」
今までに聞いたことがないような弱々しい声で鳴いたアオは、ゆっくりと体を動かした。
 




