序曲
私は結局、物置小屋の中で朝を迎えた。隙間から入ってくる陽の光が疎ましい。ミロルが食事や水を運んでくれて、何度も声をかけられたけれど、すべて無視した。
閉じこもって、どれくらいの時間が流れたのだろうか。否応なく、毒の棘にやられて、顔に痣が広がり、ひきこもっていた日々が脳内によみがえった。あの時は、これより不幸なことなんてないと思っていた。今が不幸かなんて知ったことではないが、ただただすべてから逃げ出したかった。
突如、乱暴に扉を叩く音が響いた。
「いい加減、出てきたら」
タクト・タタの声だ。
「嬢ちゃんの弟が今朝、宿に来てさ、頼まれたんだけど、姉がひきこもって、でてきませんって」
「ほうっておいてください」
「嬢ちゃんの周りの奴らはそんなわけにはいかないだろ」
「どうでもいいんです」
「わがまま言ってんじゃねえよ」
そのまま沈黙が流れた。早くそのまま帰ってほしい。誰とも関わりたくない。
「そうだ、嬢ちゃんが虫下し飲ませた馬の一頭が今、死にかけてるぜ」
私は思わず、立ち上がり、物置の扉を開けた。
「どういうことです?」
「聞こえてんじゃん、無視してんじゃねーよ」
「……だましたんですか?」
再び、扉を閉めようとしたところを、がっちりと阻止されてしまった。陽の光が目に痛くて、しんわりしみでそうになる涙を乱暴にぬぐった。
タクト・タタはあの家では気まずいだろうと、街の広場に連れ出してくれた。にぎやかな景色が目に痛い。若い母親と小さな男の子が目の前をふいに横切り、涙があふれそうになり、思わず親指をかみしめた。タクト・タタは何も言わない。それでも、気持ちのよい風にあたっているうちに波打っていた気持ちがだんだんと凪いで行くのを感じた。フィロは今、どうしているだろうか。ミロルのことを無視した。カロンはちゃんとご飯は食べたのだろうか。
「あの、タタさん」
「名前のほうで呼んでくれね?」
「じゃあ、タクトさん」
「あなたにとって弟はどんな存在なんですか?」
この人を前にして、ようやく自覚した。私はこの人に嫉妬しているんだ。ほんのちょっとしか会ってないくせに、何で私より心開いてんだよ。
「フィロはどんなでしたか?」
「え?」
「死にかけて、あなたに拾われた時です」
「……あの時のことは、あんたの弟は普通じゃなかったから。別に知らなくてもいいんじゃねえか」
「いいえ、今、私、何もかも知らなかったから、知ろうとしなかったから、こんなことになってるんです」
私はタクト・タタに話した。昨日、タクト・タタが帰ってから交わしたフィロとの会話。そして、私たちの過去のことも。長い話をタクト・タタはただ、黙って聞いてくれた。
「あれから、なんでもない顔をして、二人で旅をしてきたけど、私、どうしても……今の弟が本当の弟だとは思えないんです」
「どういうこと?」
「弟は性格が変わりました。宿主にされる前は、明るくて、誰にでも優しい弟だったんです。でも、
今はひどい人見知りで、時々、マグマが燃え上がるみたいに怒って。私、水晶血丹に弟の心を乗っ取られたんじゃないかって。以前の弟の心は死んで……私のせいで……」
「でも、弟はあんたのこと、大好きじゃん」
「え?」
「姉ちゃんが好きで好きで、たまらないように見える」
長い沈黙が流れた。そして、タクト・タタは空を見上げて、言った。
「死にかけてた時を聞かれた時、あの時、嬢ちゃんの弟の触れられたくない部分だと思ったから、言わなかったけど・・・・・・やっぱり、伝えておくわ。あの時、列車の中で、席があるのにそこに座らずに床に座り込んでて、息も荒くて、どうしたのかと思ったよ。そんで近づくと、体にびっくりするくらい熱くてさ……うわごとで、『ごめんなさい』『許して』をずっと、繰り返してた」
足元がぐしゃりと歪んだ気がした。気のせいだと分かった後でも、地面の歪みは消えてくれなくて、そのまま膝をついてしまいたかったけれど、かろうじて耐えた。
「聞けないんです・・・・・・私、熱でうなされてる時、口に出したかもしれない。でも、余計なこと言って、傷つけるんじゃないかって」
手の震えが止められなかった。
「夢で何度か見るんです。夢の中で私は弟を責めてるんです。『お前のせいでこんなことになった』こう、言ってる」
タクト・タタの顔はみれなかったが、全身で聞いてくれていることは、空気で分かった。そのまま私はひたすら泣き続けた。
私が泣きつかれた頃、タクト・タタは口を開いた。
「俺はガキの頃、奴隷小屋に売られそうになったんだけどさ、隊商の長が俺を買ってくれたんだ。おっちゃんは家族同然に俺を育ててくれた。仲間たちもみんなみんな家族だったんだ」
タクト・タタは懐かし気に目を細めた。
「ある時、おっちゃんは賊に襲われそうになってる薬売りの男を助けた。その男はえらく感謝して、俺たち全員に飯をおごってくれて、帰り際に酒をくれた。おっちゃんはすげえ高価な酒だって喜んだ……その酒には毒が入ってた」
私は息を呑んだ。
「みんな死んだ。無事だったのは、その時、ガキで酒が飲めなかった俺だけだった」
タクト・タタの目は怒りで燃えていた。
「俺は地の果てでも追いかけて、その『薬売り』を探し出す。だから、隊商の護衛をしながら、食い扶持を集めて、薬を扱うやつらから情報を集めてる」
「……だから、薬売りを信用しないって」
「あいつらは、情報を集める道具でしかないって思ってた。でも、今はそうじゃねえ。俺はお前らのことは信じてる」
タクト・タタは私の肩に手を置いた。お兄ちゃんってこんな感じなのかな。それから、黙ったまま二人で街を眺めた。
日が暮れる頃、タクト・タタが送ってくれて、家に着いた。
扉が開くと、フィロが私に抱きついた。足元でロニがまとわりついてくるのが分かった。レノとカロンが私たちを不思議そうに見つめていた。
フィロが食事の支度をしてくれている。木の実がたくさん入った雑炊で、私が食べやすいものを用意してくれているのだと分かった。
「フィロ、昨日はごめんね」
「ううん、俺こそ、ごめん」
「ちょっと、あの二人のことを相談していいかな?」
「うん」
「『杢石藻』は、人の記憶を盗む。だけど、あくまで断片的なものだけだと思うんだ。あの二人も『ルチカ』『フィロ』『薬売り』とか、そういう母の記憶の印象に強い言葉には反応はできるけど、内容までは把握できてるわけじゃない」
「うん」
「だから、『杢石藻』に人格を乗っ取る力はないと言っていい。それに、時間が経つうちに、体内に侵入した藻が剥がれて、元の、母さんの記憶も抜けるんじゃないかな?」
「どうして、そう言える?」
「ほら」
深緑色の粉のようなものを差し出した。
「これ、この家で拾ったんだ。これ、『杢石藻』だよね。あの子たちの体から、少しずつ落ちていってるんだよ」
「でも、あの子らの記憶は戻るのかな?」
「……それは、また別の話になるよね」
それ以上の、母の話はできなかった。逃げかもしれないけれど、こんなお互いに弱っている時にしたくはなかった。
夜ももう深い。私たちは四人、横並びで眠るようになっていた。フィロとカロンは規則正しい寝息を立てている。
「ルチカ、眠れないの?」
隣で眠っていたミロルがこちらを向いていた。
「うん」
「私たちから離れなきゃいけない時は、ちゃんと言ってね」
「離れないよ」
「それは、ルチカの願望? それとも、義務?」
「義務なんかじゃない。私がそうしていからしてる」
ミロルは布団の中から私の手を握った。
「じゃあ、ルチカの気持ちが義務に変ってしまった時は、言って」
「分かった」
涙が溢れそうになったので、慌てて顔をそむけた。それでも、ミロルが微笑んでいるのは分かった。
早朝。まだ、朝陽が登り切っていない、どこかひんやりした空気の中、私もフィロもミロンもカロルも眠っていた。どんどんと扉を叩く音が響き、寝起きのぼんやりとした頭で扉を開けた。
そこにいたのは、この街に来た時に食事をごちそうしてくれたリネさんだった。
「あなたたち! 大変なの」
こちらに向かって、血相を変えて走ってきたのはリネさんだった。
「お願い、早く、来て。あなたたちなら、何か分かるかも」
「落ち着いて、どうしたんですか?」
息もきれぎれのリネさんの肩に手を置いた。
「村中の子供たちが、列をつくって歩いてるの! 声をかけても、誰も反応しなくて・・・・・・誰かに操られてるんじゃないの!」
私たちは急いで身支度を終えた。寝ている二人に報せる余裕はなかった。草笛吹いた。高い音が家の中に鳴り響く。私はそのまま、フィロとともに、家を飛び出した。
その光景は異様だった。
見たところ、十歳以下であろう子供たち、数十人ほどが列をつくって、歩いていた。
子供たちの目に生気はなかった。
リネさんの言ったとおり、いくら声をかけても、誰も何も反応しない。
「この子たちの親たちはどこです? 親が無理にでも連れ戻せば」
「それが、呼びに行ったら、家で気を失っていて・・・・・・眠ってるだけだと思うんだけど」
ということは、この事態を周到に計画した誰かがいるということだ。
「他の大人は?」
「・・・・・・それが、無理に引き戻そうとしたら、何人かに取り囲まれて、突き飛ばされて、踏みつけられて」
凶暴化した子供に取り囲まれたら、非力な大人はひとたまりもないだろう。それに、今日は、村の男衆が狩りに出る日ではなかったか。村の男たちがごっそりいなくなるこの日を選んだ。かくいう私たちを呼びに来たリネさんも子供たちを止めようとして、噛まれたのだろう。手の甲が歯の形に真っ赤に染まっている。
フィロは、子供たちに歩幅を合わせながら、彼らを冷静に観察していた。
「とりあえず、こっちから刺激を与えない限りは、攻撃してこない」
子供たちが、向かっている先は沙漠の入り口の洞窟だった。このまま、村外に連れ出そうとしているのだろうか。リネさんの肩に手を置き、
「戻ったら、手当します。呼びに来てくれて、ありがとう。後は私たちが」
リネさんは涙ぐみながら、頭を下げた。
「お願い」
私はリネさんに紙を渡した。タクト・タタが困った時は呼べと言ってくれた、宿と部屋番号を書いた紙だ。
「あと、ここの宿に泊まっている、タクト・タタという人にこの事態を知らせてもらってもいいですか?」
宿にいるかどうかは分からないが、今は夜が空けたばかりの早朝だ。いる可能性のほうが高い。そう、思いたい。
「分かった、気をつけてね」
リネさんが去っていく。私は街の方角に向かって、草の笛を吹いた。高い音が鳴り響き、私は子供たちを導くべき場所へ目を向けた。