記憶を乗っ取る藻
全身水浸しの私たちをタクト・タタは明らかに変態を見る目で見つめているが、そんなことはどうでもいい。
私は袋の中身をフィロとタクト・タタに見せた。さきほど採取してきた藻を掌の上で広げてみせる。そして、ミロルとカロンについても説明した。
「ミロルとカロンはさっき私が飛び込んだ、幻の湖に落ちて、この藻のせいで別の人の記憶を見せられて、自分の記憶を失ってしまったんです」
タクト・タタはぽかんとしている。
「この藻は『杢石藻』という枯渇した湖に生息する藻なのですが、この藻は現実には存在しない湖の幻を見せて、その中に引きずり込む。そして、その幻の湖に落ちた人の耳の穴から入って、脳に侵入して、記憶を盗みとるんです。そして、その前に落ちた人の記憶が脳内で幻覚を見せている。あの二人もまさにそういう状況です」
「脳に侵入って、まじかよ? やばいんじゃねえの?」
タクト・タタが顔をしかめた。確かにこの藻が耳の穴に入る場面を想像すると、何ともいえないぞわっとした感覚になる。そんな時、フィロが助け舟を出してくれた。
「でも、今のところ、ミロルもカロンもやそこまではいってないと思うよ」
「うん、あの子たちは、藻に侵入されてから、大分時間が経ってますけど、痛みとか吐き気もないし、食欲も普通にあるし、意識障害もない。だから、死ぬほどの危険性はないと考えていいかと。まあ、記憶を乗っ取られてますけど」
「特にミロルは俺よりしっかりしてるね」
「あんたもがんばりな」
「俺も頑張ってる」
「そう、思えば、あの子たちは私たちに会った時から、ずっと滑らかに話をしてました。記憶喪失の人って、もっと意識が不明瞭な人が多いと母から聞いたことがあって、二人の場合もそれに当てはまらないかもしれないけど、引っかかってはいました。だから、記憶を喪失したうえで、別の記憶を自分のものだと思い込まされた可能性もあるかもしれない、と考えて」
記憶を盗み、別の生き物にその記憶を見せ続ける藻。私が幻の湖の中で見た光景はひとつの可能性を示唆する。
「この場所に母さん、私たちが来る前に来てたと思う」
フィロは目を見開いて、私を凝視した。
「この『杢石藻』に母さんはとりこまれてた。あんたは見てない? あの幻覚の湖の中で小さい人型に『ルチカ』、『フィロ』って声をかけてた。あれって、母さんから見た私たちじゃないの?」
「母さんがこの場所に来てたって……どれくらい前に?」
「それは分からない。でも、そんな前のことでもないと思う」
フィロの顔は明らかに強張っていた。それは、母の話題がそうさせているのだということはとっくに気づいていたが、私は興奮を冷ますことができずに続けた。
「間違いない。母さんの記憶だよ。『ルチカ』『フィロ』って確かに言ったもん。母さんは、きっと離れていても、一番に気にかけているのは、私とフィロなんだ」
「じゃあ、お前らの母親もあの二人のように記憶を失って、別の人間の記憶を見てるってこと?」
「ううん、それはないと思います。だって、『杢石藻』は水分に触れたら、すぐに消えてなくなるから」
「どういうことだ?」
「あの藻は、他の藻とは逆で乾いた場所でしか生きられないんです。だから、枯渇した土地でしか生きられない。藻というからには、元は水中に生息していたんでしょうけど、乾いた場所でも生きられるように、進化の過程で真逆になってしまった。だから、あの藻に侵食されないてっとり早い方法は全身水浸しになることです」
「ああ、だからお前ら、井戸の中に飛び込んだのか」
「はい、この藻のことをを私たちが知っているのに、母が知らないなんてことはあり得ない。幻の湖に落ちて、藻に襲われて、地上に戻ったあと、すぐに水をかぶったはず……ただ、あの二人はそのことを知らなかった。そう、私自身、あの幻の湖に落ちた時、頭の中で、『ルチカ』とずっと、呼ばれてたんです。私は藻のことも知っていたから、心の準備もできていたし、脱出して、すぐに水もかぶった。何より、『ルチカ』は私の名前ですからね。母の記憶が私の頭の中に流れ込んできても、自我が揺さぶられることはない。だけど、あの子たちは湖の幻で溺れさせられたけれど、現実のものではないから、実際におぼれ死ぬこともなく、そのうちに地上に戻れた。だけど、私のようにすぐに藻を退治することができず、ずっと耳の穴に残った状態だった。だから、湖から這い上がった後も、ずっと、頭の中で、『ルチカ』『フィロ』と呼ばれ続けた。おそらく、何日も」
タクト・タタが眉間に皺を寄せた。
「すげえ、きついな、それ」
「それに、反比例して、自分の記憶は藻に吸い取られていく。それで、自分の名前を『ルチカ』『フィロ』と思い込んでしまったのだと」
「治してやる方法はねえのか?」
「それは・・・・・・」
フィロの言葉がよみがえる。辛い出来事を追体験させるなら、そのままのほうがよいのかもしれないけれど、私たちが勝手に決めてよいことではない。
「あの子たちが望めば、治す方法を考えたいです。今は、二人の気持ちを聞くことができていないけど」
「まあ、俺ならあんな分けわかんねえ藻なんかに、人格を持って行かれるなんてごめんだけどな」
「そう・・・・・・ですよね」
歯がゆい。もっと、経験豊かで博識な薬売りなら、違ったのだろうか。こういう時、新人二人で薬売りをすることへの限界も感じる。いざというとき、頼るべき人がいない。通常、薬売りは、経験豊かな師匠格の者と見習いの者が組んで、行商を行うことが多い。旅路の途中で、見習いは師匠の仕事ぶりを見て、学び、吸収して、一人前になっていくのだ。
母さんやじいさんがここに居たら、どうしてたかな。そう、私もフィロももっと先人に学ばなくてはいけないのだ。
「でも、その子らの面倒を見てきたのはお前らだしな。俺は余計な口を挟むのはよすよ」
「いえ、口、挟んでください。私たちだけだと、何だか、行き詰まっちゃって。ちゃんとした大人の意見が聞きたいんです」
「俺、お前らより、大分馬鹿だけど」
「馬鹿だろうが、あなたの話を聞くと、頭の風通しがよくなるんです」
「いや、そこは否定してよ」
フィロの顔色がすぐれない。そうだ。元々、フィロは体調が悪かったにも関わらず、あの藻に湖の幻を見せつけられ、幻覚の中でおぼれかけたのだ。
「タクトさん、フィロ、疲れているので今日はもう……」
「ああ、俺こそ、ごめんな、今日は帰るわ」
タクト・タタはさっと立ち上がり、出口に向かって歩き出す。しかし、その手前で振り向いた。
「それから、余計なお世話だと思うけど、懲りずにあんなことやってると、お前、近いうちにころっと死ぬぜ」
あの時だ。そう、幻の湖に二度目に飛び込んだ時。あの時は、一度目の時とは違い、フィロを助けるために飛び込んだのではなかった。未知の生き物である『杢石藻』の存在を確かめる、ただそれだけのために。
「あー、そう、かも・・・・・・ですね」
「慎重さがない人間なんて、本当の危機には何も出来ない間抜けだね」
返せる言葉なんて、ない。しかも、つい最近、同じようなことをフィロに対して、説教したばかりだ。赤面しているのが自分でも分かった。
旅の途中で何度も痛い目にあっている癖に、私はどうしてこうなのだろう。学習能力のない間抜けと批判されても何も言えない。でも、こうして、どうしても欲しかった『杢月藻』の情報は得ることができた。私は獲物を手中に収め、昂ぶっている自分自身をどうしても、認めざるをえない。落ち着くために、はあと息を吐きだした。
「『馬鹿は死ななきゃ治らない』って、言葉を考えた人の側には、どんな馬鹿がいたのかな?」
「案外、そいつは自分自身のことを言ったのかもしんねえぞ」
思わず吹きだしてしまった。
「馬鹿につける薬は自分でつくらなきゃだめってことですかね」
「それ、馬鹿を悪化させる薬じゃねえだろうな?」
タクト・タタが妙に神妙な顔をして言うのがおかしかった。でも、それは私たちを気遣ってくれての言葉だと分かっていた。
「恩もあるし、俺はいつでも力になるぜ」
「ありがとうございます」
タクト・タタが帰っていく。ばたんという扉の音がやけに大きく響いた。タクト・タタが渡してくれた自分の泊まっている宿の住所と部屋番号を書いた紙をじっと見つめた。
フィロがぼそりと呟いた。
「あの子たちの他に母さんの記憶を植え付けられた人はいるのかな?」
「この辺りは村の人は避けてたってリネさんは言ってたし、時間もそんなに経ってない。いない可能性のほうが高いって考えていいんじゃないかな。思えば、リネさんは変なかがり火みたいなのが見えてみんな避けるようになったって言ってたし」
「ていうか母さんは何で、この場所に来たわけ?」
「母さんだって薬売りだ。調査のために、ここに来たのかも」
「何の調査?」
「それは……分かんないけど……うーん、そうか!」
「何だよ」
「売約手帖!」
「どういうこと?」
私はフィロの両肩をつかんで揺さぶり、続けた。
「じいさんの売約手帖の情報……やばい植物の情報を追って、この場所にきたんじゃないかな」
「……何で、母さんがやばい植物の情報を追ってるの?」
「母さんは昔、やばい植物を薬種にしようとしてたじいさんを否定してた……でも、考えを変えたんだ。分かんない? フィロのためだよ」
「俺の?」
「フィロから水晶血丹の支配から解放したくて、ずっと調査してるんだよ。じいさんがやばい植物を専門に研究しようとしてたんなら、じいさんの書いた売薬手帖に書いてある植物を順番に追ってるんじゃないの? 母さんが出ていって、私たちがソーヤ村を旅立つ前、私たち、家の中の本を読み漁ったでしょ。でもさ、本当にやばい情報が載ってる本は母さんが持って出ていったんじゃないかな。現にあんたには禁書が入ってた書庫の鍵を壊されたわけだし」
「母さんしか、知らない、情報を持ってると思う。どうしても母さんがこの場所に来て、藻の調査をしていたとしか思えないんだ」
フィロは私の手を振り払って、言った。
「ルーがそうであってほしいと思ってるだけじゃないの?」
「……うん、そうだね」